2021年09月04日

いにしえの軽井沢 – 長倉牧はどこにあったのか(後編)


(前編より続く)

「軽井沢」という地名は馬と関連があるという(「軽井沢、かるいさわ、かるいざわ」)。

江川氏は、民族学者柳田国男が提唱した「背負う」を意味する古語「かるふ」から「かるいさわ」が生まれたという語源説を支持・補強している(先日再放送された「ブラタモリ軽井沢編」では、「軽石が多い」から「軽井沢」と名付けられた、という「軽石沢」語源説が語られていた)。

「背負う」のは足場が悪い場所で馬に代わって人が荷物を背負うことで、具体的にどういう場所で人が荷を背負うかというと、坂道というのが従来の見方だった。しかし江川氏は湿地帯でも馬は脚をとられるので人が代わって荷物を運ぶ必要がある、と考えた。だから「かるいさわ」と呼ばれる集落は、坂道だけでなく湿地もあるような場所に存在していることが多い。同地名が東日本に多いのは、馬の飼育や使用は東日本が優勢だったから、という。なお、「沢(さわ)」という言葉は東日本では坂道や谷を意味した。

望月宿(歌川広重).jpg
(歌川広重描く、望月宿での馬による物資の輸送。望月宿行ったけれど、こういう感じの場所あったかなあ。わかるはずはないか。)写真提供:メトロポリタン美術館

軽井沢には「長倉」という地名があり、それがそもそも「そこに長倉牧があった」と思い込む要因の一つになっているのではないか。この地名は何なのだろうか。

実は古代の「長倉」は非常に広い地域を示しており、御代田町、小諸市などにも「長倉」の地名は字として残っている。軽井沢の「長倉」は、たまたまその中で残った大地名ということだ。

例えば「武蔵の国」は、今の東京都ほぼ全域、埼玉県と神奈川県の一部を占めていたが、現在「武蔵」を地名として持っている場所はごくわずかである(例えば「武蔵野市」)。それと似たようなものかもしれない。(そういえば、6月27日放映の「青天を衝け」で、渋沢栄一と土方歳三が二人とも元は「武州の百姓」で、意気投合した、というシーンがあった。今の感覚で、渋沢の埼玉県深谷市と土方の東京都日野市が同郷とは思えないが、当時はともに「武蔵の国」だった。)

では、本当の「長倉牧」はどこにあったのか。

江川氏によると、古代の官営牧は何十頭もの馬を通年で飼育するのだから、それなりの「人員」と人と馬を養う「食糧」が必要になり、それは現地調達となる。そうすると軽井沢の今の「長倉」あたりでは、ちょっとむずかしいのではないか。火山噴火の影響で荒れ野か湿地帯になっていて、さらに標高千メートルでは高地すぎて米は作れない。

また「牧」となると、平地すぎては長い柵が必要になってしまう。適度に自然地形が囲い込むような状態になっているのが効率的だ。そうなると軽井沢はけっこう平らで牧としては不適当かもしれない。

そこで、追分のお隣「御代田町」はどうだろうか。平坦地は標高700〜800メートル台で、平安時代でも米作が可能だったという。それに、御代田町小田井とそれに隣接する小諸市御影あたりは、縄文から中世まで、幅広い時代の遺跡(住居址、土壙墓、土坑、土器類)が多数発掘されている。浅間山噴火の影響が少ないため、長い間継続して人が住めたことを示している。

さらに御代田や小諸には「田切地形」もある。実は12世紀の追分火砕流よりはるか昔、約15,800年前、浅間山の噴火により大火砕流(平原火砕流)が生じ、佐久市まで到達した。国道18号を小諸に向かって走ると、深い谷が見られるが、あれは平原火砕流の地表を川が穿ってできた地形なのだ。

私も初めて田切地形を見た時、どれほど長い時間が大地をあれほど穿ったのだろうか、と不思議に思ったものだ。火山噴火で地形が何度も変わっているだろうから、数十万年も安定した地形でいられたはずがない、という認識があったのだ。だが、堆積した火砕流や軽石などは比較的柔らかい土壌なので、細い水の流れでも約1万5千年かければ、あれだけ深い谷が作れるというわけである。

御代田の町役場あたりから小田井方面は、追分火砕流が届かなかったので、平原火砕流を川が穿った田切地形が見られる。

例えば、戦国時代に建てられた小田井城。犬の散歩で行ったことがあるが、三方を深い谷に囲まれている。そういう田切地形は、平地部分がある程度広ければ馬の放牧にも向いている。

小田井城趾_案内板.jpeg
(城跡があるのは知っていたが、西友御代田店から歩ける距離にあるとは思わなかった。1547年に武田軍と地元佐久勢力との間で激しい戦いが行われたという。今はのんびりとした農地なので、兵どもが夢の跡、という感じである。)

小田井城_堀.jpeg
(掘は二重の掘となっている。この写真ではよくわからないが、中央に見える二本の木の間が、中央の盛り上がり部分で、左右が堀。)

小田井城から西に行くと、広大な水田が広がっている。御代田町、佐久市、小諸市にまたがったこの水田地域は、鋳師屋(いもじや)遺跡群と呼ばれる広大な遺跡が眠っている。私もここを東西に走る県道137号線(借宿小諸線)をよく通るが、西屋敷あたりは古い感じが残っている。かつては奈良から平安時代にかけ大集落だったようだ。重要なのは馬の埋葬跡が見つかっていることだ。

また、当時の街道、東山道はこのあたりを通っていた可能性があり、「長倉駅」(中継基地)が置かれていたとも言われている。おもしろいことに、「長倉牧」は軽井沢地域にあると考える人が多いのに、「長倉駅」はこの小田井周辺にあったと考える研究者が多いのだ。

人もたくさん住んでいて、田畑もあり、埋葬馬が発掘されていて、田切地形が適度に天然の牧堤となっていて、これはもう「ここが(このあたりが)長倉牧だ!」と言ってもいいのではないだろうか。

小田井・御影から浅間山.jpeg
(今は水田地帯となっている鋳師屋遺跡群付近から、浅間山を仰ぐ。)

ちなみに、もう一つの官営牧である塩野牧は、現在も塩野として地名が残っている地域にあった、とほぼ誰もが考えている。

総括すると、官営馬牧場という性格上、荒れ野の軽井沢に設置するのは難しく、縄文時代以降の遺跡があり大きな集落があった御代田町小田井付近に長倉牧があったとするほうが合理的な説明が付く。中軽井沢の「長倉牧の牧堤跡」は実際の長倉牧堤跡ではない可能性が高い。

長倉牧の牧堤跡ファンには申し訳ないが、私も前編で記した江川氏の論文「長倉牧の軽井沢比定説について」にある上記の結論に賛成である。

賑わった夏も終わり、紅葉シーズンまでしばし静穏な軽井沢。3密とは無縁の遺跡巡りには良い気候。遺跡巡りとはいっても、ほとんど史跡として残されているわけではないので、地図に示された場所に佇み、いにしえに思いを馳せるだけだが。

私にとって軽井沢はリゾートとしてだけでなく、古代史においても魅力的な町である。


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2021年08月28日

いにしえの軽井沢 – 長倉牧はどこにあったのか(前編)


惨渦二度目の夏、緊急事態宣言にもかかわらず、例年より少ないとはいえ、多くの観光客が軽井沢を訪れた。

そんな人を惹きつけてやまないリゾート避暑地軽井沢。

時は、3万2千年前。軽井沢の南に位置する八風山は、日本列島に着いたばかりの、まだホモ・サピエンスとしか呼ぶしかない人類を惹きつけていた。八風山には当時の生活道具である様々な石器の製造に適した良質なガラス質安山岩が豊富にあり、当時の人々にとって「石器アトリエ」となる重要な場所だった。

初期日本人たちは、原石から石器を作りながら北方に目を向けると、噴煙を上げる浅間山が見えていたことだろう。彼らが見ていた浅間山は、高さ2800メートルにもそびえ立つ美しい円錐形をした「黒斑山(くろふやま)」である(今の黒斑山はギザギザになった崩壊後の残り)。

Mt. Asama with smoke 2.jpeg
(噴煙を上げる浅間山、といっても現在と20世紀以前の活発度はまったく違うので、この噴煙はかわいい方。)

時は進んで古墳時代。日本神話の一大ヒーロー、ヤマトタケルも軽井沢に来ていた。もし実在していたら、西暦380年頃のことだったと思われる(古事記・日本書紀に綴られたヤマトタケルの話はけっこう具体性があるので、モデルとなった人物は存在したかもしれない、と私は思っている)。

日本書紀によると、父の景行天皇に命じられた東征の帰路に「碓日嶺」を通って信濃に入る。嶺の上で、途中亡くした妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)を偲んで、「我嬬(あづま)はや」(ああ、我が妻よ)と嘆く。その時向いていた方向は東側、つまり群馬県側だったが、振り返って北を見やれば、噴煙盛んな浅間山が見えたことだろう。今とはちょっと火口の位置が違ったようだが。

「碓日(うすい)峠」は、この時代(古墳時代)、今の碓氷峠ではなく、入山峠だったと考えられている。そしてヤマトタケルが通った峠道は「東山道」の原型か。

国道18号バイパスを東に進み、ちょうど群馬県との境界が入山峠。そこには「入山峠遺跡」があり、古墳時代の祭祀具(勾玉とか土器とか)が発掘されている。古代、そこで「道中の無事を祈って、お祭り(お祈り)をした」と思われる。古墳時代人にとって、入山峠は重要な場所だった。

さて、山を下りて浅間山麓には人は住んでいたのだろうか。

いまだ元気な活火山浅間山は、これまでも記録に残る激甚災害を起こした天仁噴火(1108年)、天明噴火(1782年)を始め、何度も大噴火を繰り返しているから、山麓なんかに落ち着いて住めるとは思えない。それに、標高1000メートルの高地ゆえ寒くて住むこと自体大変だ(「新浅間山ハザードマップの衝撃」「予兆なし、浅間山噴火」)。

と思いきや、調べて見ると意外だった。古墳時代どころではなく、その数千年前、縄文時代から人がいた。町内あちこちに縄文遺跡がある。

とはいうものの、追分の我が家など、天仁噴火(1108年)による追分火砕流の上に建っている(「軽井沢の大地に刻まれた12世紀の面影」)のだから、もし町内に遺跡があっても12世紀以前の遺跡など厚さ8メートルの火砕流に埋もれてしまっているはずだ。

と思いきや、御代田の浅間縄文ミュージアムで買った群馬大学教授早川由紀夫著「浅間山の噴火地図」を見てみると、借宿から東側は追分火砕流が来ていなかったのだ。だから、中軽や旧軽あたりは縄文から中世までの遺跡があちこちから発掘されていたわけだ。ただ、住居址は見つかっていないので、やはりじっくり住み続けた人々は少なかったのだろう。

軽井沢町公式HPには、軽井沢町遺跡詳細分布地図があって、ダウンロードして見てみると、中軽井沢から発地方面にかけて遺跡が多い。縄文遺跡は前期と中期が多いが、そのころは暖かい時代だったので、高地の軽井沢でもそれなりに人が住めたのではないだろうか。

つい最近まで私が知っていた軽井沢最大の遺跡は、「長倉牧の牧堤跡」だけだった。

中軽井沢の、国道18号から北に延びる通称「ロイヤルプリンス通り」をちょっと行くと、人気の惣菜店「けろけろキッチン」があって、そのすぐ北にこの「牧堤跡」がある。

長倉牧の牧堤跡.jpeg
(軽井沢町教育委員会と軽井沢町文化財審議委員会が連名で案内板を設置している。しかし、牧堤の土手にしては小さすぎないだろうか。)

信濃は平安時代の昔から馬の産地で、佐久地域には望月牧、塩野牧、長倉牧という官営牧(つまり国営馬牧場)が3つあり、何十頭もの馬が飼育されていた。

牧堤というのは、馬が牧場から逃げないようにするための境界だというが、この写真に見える長倉牧の牧堤はなんとも小さい。はたしてこの程度の堤で、いくら当時は小型だったとはいえあの体躯の馬を留めておくことができるのだろうか。

そこで私はもう一つの「牧堤跡」である、望月牧の「野馬除(のまよけ)」跡にも行って見た。場所は東御市の、その名も「御牧ヶ原(みまきがはら)」。東御市にはこの「野馬除」跡が10箇所残っているという。ちなみに、この野馬除から南に三キロほど下ると、「望月」の名を受け継ぐ旧中山道の望月宿がある(「中山道を往く」)。

軽井沢の「長倉牧の牧堤跡」と「望月牧の野馬除跡」を比べてみると、その大きさの違いがよくわかる。

望月牧は、信濃国に置かれた十六牧のなかで最大規模だったといい、写真ではあまりよくわからないが、U字型に溝が掘られ、左右の土手はかなり盛り上がっている。土手の上には柵が建てられていたとのこと。これならば馬は逃げられない。

(野馬除の説明板。この先に「牧堤」が残っている。御牧ヶ原はなんとも牧歌的。こんな環境で馬は伸び伸びと育ったのだろう。)

野馬除2.jpeg
(中央の溝は本来はもっと深く、左右の土手はもっと高く、柵はその土手の上に建てられていたという。)

中軽井沢の「牧堤跡」は実際には牧堤跡ではない、と異議を唱えたのは、軽井沢に住む地理研究者江川良武さんである。あるときネット上で、「長倉牧の軽井沢比定説について」という氏の論文を見つけて、その説に驚いた。

一般に理解されているところでは、中軽井沢の「長倉牧の牧堤跡」はさらに東西に延び、追分火砕流の上にも跡が続いている。レーザーを使った3D航空写真でも、その跡が認められている。

江川氏の論文にも書かれているが、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」の文治2年(1186)記事で、長倉牧含め信濃諸牧二十八のことが記載されている。つまり、その年には「長倉」は牧として機能していたことを意味する。ということは、「長倉牧が軽井沢にあった説」では、天仁噴火(1108)による追分火砕流で(少なくとも追分側は)潰された長倉牧がそれから約80年後には復活していた、ということになる。

私も論理的に考えてみると、軽井沢側に火砕流は発生しなかった天明噴火(1783)でも、それ以降明治まで長い間追分を含め軽井沢地域は荒れ野となっていたのだから、天仁噴火以降、そんなに短期間で馬の飼育に適した状態に戻せるとは思えない。冷えたとはいえ馬に火砕流の噴石だらけの上を歩かせるなんて、動物虐待だ。考えただけでも恐ろしい。

さらに追分火砕流に覆われた地表は江戸時代にも融雪泥流で覆われていて、3D地図に写る「跡」はそれ以降、つまり江戸後期か末期に作られたものではないか、と江川氏は推定する。

江川氏は、軽井沢の「長倉牧堤跡」は、牧堤ではなく、江戸時代後期以降に作られたなんらかの「境界」なのだろう、そして長倉牧は追分火砕流の被害を受けなかったところにあったはず、と推論している。

追分火砕流の上に住んでいるから、というわけでもないが、私もそう思う。

では、長倉牧はどこにあったのか。

(以下後編に続く)


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2021年06月19日

人は信じたいことを喜んで信じたがるものだ


これはユリウス・カエサルが自著「ガリア戦記」で言っている言葉。世界中でよく使われている。いろいろ訳し方はあるが、日本で有名なのは塩野七生著「ローマ人の物語」にある「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」で、これは塩野氏の意訳。

原文のラテン語では、fere libenter homines id quod volunt credunt. 直訳すると「ほとんどの場合、人間たちは、自分が望んでいることを喜んで信じる」という感じらしい。

さて、カエサルのこの名言、コロナ禍の現代にぴったりだと思う。なぜか。

普通のテレビ番組だけ見ていれば、「新型コロナウイルスはインフルエンザより感染力が強く、致死率も高い」「マスクや手洗いは必須」「無症状感染者でもウイルスを出す」「ワクチンが必要」などが常識だと思うだろう。

だが、YouTubeや出版物などでは、それとは異なる見解を持つ人々が「コロナは怖くない」と声を張り上げている。

彼らの主張は「コロナはインフルエンザとたいして変わらない」「コロナを怖がりすぎ」「今の感染対策は過剰」「PCR検査は無意味」「ワクチンは危ない」などだ。

最近よく使われる「エビデンス(科学的根拠)」をもって実証すればよい、というが、このエビデンスというのが曲者。

実は、多数派の「コロナ肯定派」だけでなく、少数派の「コロナ否定派」にも、量の差はあれ、それぞれにとって都合の良いデータが存在するのだ。字数制限や出典提示の大変さもあって、実際のデータは省略させてもらうが、Google で調べればすぐわかる。

なぜ両者にとって都合の良いデータ(専門家による論文も含め)があるのか、というと、この新型コロナウイルスはまだ出現したばかりで、統計などのデータは不確実でその分析も道半ば。時間不足で明確な結論にはまだ到達していない。例えばワクチンでも、まったく新しいタイプのワクチンであるmRNAワクチンは、「安全性は実証済み」とメーカーは言い張り、「長期的安全性は確立されていない」と医師も含めた懐疑派は疑う。実際には接種後まだ1年以上時間が経過していないのだから、2年〜5年といった長期的安全性は実証されていないのが事実。だから「安全」も「危険」もどちらも「仮説」である。

そこで、カエサルの名言「人は信じたいことを喜んで信じたがる」が登場するわけである。

「コロナたいしたことない、怖がりすぎ」「マスク、マスクとうるさい」「コロナ不安を煽られている」「コロナ恐怖症を洗脳されている」などという立場を取る人たちの多くは、純粋に科学的視点、データにもとづく検討、論理的熟考などからその結論に達したと信じている。だが、人生の選択と同じように、ひょっとして彼らの性格や嗜好により、方向付けされているのかもしれない。

そういう人たちは、「ユニークな考え方を持っている」「人と違うことをしている」「大胆な説を唱えることが多い」「異端児的性格を持っている」「強い精神力を持っている」ように思える。

大昔だったら、台湾島の南端から大海原を目指し大海に船出したポリネシア人の祖先(客観的事実)や、はるか南北アメリカまで行った縄文人(これは仮説)に近いような冒険者タイプの人たちかもしれない。

彼らはコロナ禍でおののき、政府やマスコミの言うがままになって右往左往している(ように見える)人々を見ると、イライラし、我慢できなくなるのだろう。

一般大衆は、特に未曾有の災害となれば、ごく普通に不安を感じてしまう人々である(生命体として不安や恐怖を感じるのは当然で、そうでなかったら生き残れない)。だから未知のウイルスを怖がって感染防止対策に一所懸命となる。

じゃあ「コロナ肯定派」が「科学的データにもとづいて理性的に考え選択し行動しているか」と言えば、やはり、不安をかきたてるような不吉なデータには目を背け、メディアで主に報道されているデータに頼り、気持ちを落ち着かせようとしているのではないだろうか。

新型コロナウイルスが蔓延し、多くの人々が感染し、重傷者や死者が出ている、という事実は変わらないが、それに関するどのようなデータや統計をどう判断するか、この事象をどう見てどう対応するか、により「コロナ肯定派」か「コロナ否定派」かに分かれる、ということだろうか。もちろん、その結果の選択や到達した結論が間違っている、ということではない。

コロナ禍の様相は全国一律ではない。日本も広いので、「怖がってばかりいる」わけではない「コロナ肯定派」もいる。

例えば、私のように森の中の自宅で仕事をしている人々。パソコンと通信環境があれば、仕事はできるので、人と会う必要がなく、森の中なので家の外に出ても人と行き交うことは少ない。

じょうびたき.png
(森の中の住人は人だけではない。春になって薪ストーブの煙突から飛び込んできた「ジョウビタキ」。使用していない時、薪ストーブの煙突から鳥が入ってくることがある、とは聞いていたが、まさか本当に落ちてくるとは。一騒動の末、無事外に出すことができた。森の中に住むとそんなこともある。)

私の場合は、3.11後、災害に弱い大都会に住むことに恐怖を感じ軽井沢に移住してきたので、分類すれば「不安派」であり「自衛派」であろう。地震の揺れに怯えることなく暮らせるのは何と素晴らしいことか、と日々思いながら暮らしている。

そんな感じの「森の中のテレワーカー」は、「コロナ否定派」が言うように、不安症になっているわけではなく、「同調圧力」もほとんど感じないし、洗脳されたり、恐怖を煽られたり、政府の言いなりになっていると感じているわけではない。まして籠もる必要もない。ただし万が一感染してしまっても、誰かが責任を取ってくれるわけではないので、感染防止対策をしっかり講じるのは、「自営業」の「自衛派」としては当然のことだ。

気持ちを和ませてくれる周囲の緑や鳥のさえずり。四季折々の表情を見せる森の中の散歩。コロナ禍で仕事は減っても、果てしなく続くように思える落ち葉掃除、容赦なく生える雑草の除去、ほっとけば草原になってしまう芝生の管理など季節毎の庭仕事で忙しく、悩んでいる暇はない。近隣都市や大観光地の軽井沢中心部へ行けば、確かに人は多いが、そうであっても人の少ない散歩道がある。大都会の人口密集地とは、感染リスクやストレスのレベルが異なるのである。

カモのソーシャルディスタンス.jpg
(御影用水温水路。見事なソーシャルディスタンス!をとりながら一休みしているカルガモたち。)

確固たる意見を持つ「コロナ肯定派」も「コロナ否定派」も多くは、自分の好きな方を選んでいるのではないか、と私は推測したが、考え方はどうであっても、コロナ禍の事実は変わらない。

であれば、せめてストレスだけは下げたい。

日本人の5割が住む大都市圏。どこに行っても人の多い大都会は、自然災害のみならずパンデミックにも弱いことがわかったのだから、今こそ本気になって対応策を考えるべきではないだろうか。人口の分散が一番だと思うが、地方に移住したいと思ってもそう簡単にはいかない。生活基盤が都市にあるからだ。やはり仕事(会社)そのものが地方に移る必要があると思う。

最後にもう一度、塩野七生氏の訳でカエサルの名言を挙げたい。

「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」


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2020年08月18日

本当の軽井沢 – コロナ禍に抵抗するリゾート


軽井沢は、避暑地か。庶民的リゾートか。金持ち向けの高級別荘地か。食べもののおいしい街か。大規模アウトレットモールのあるショッピングタウンか。

軽井沢といっても、現在ではいろんな側面がある。

人口わずか2万人の町に、年間840万(2019年)の観光客が訪れる。新型コロナウイルスが世界を席巻している今、軽井沢は年初に外国人客も多く、現在でも次第に観光客が増えている。それなのに、なぜコロナウイルス感染者がほとんど出ていないのか(2020年8月18日現在)。誰もが疑問に思うことではないだろうか。

もし今後陽性者が多数出たりクラスターが発生したりしなければ、なぜ日本有数の観光地軽井沢が新型コロナ感染の渦から免れているのか。それに対する私なりの答えは「本当の軽井沢」にあった。

Umbrella Sky.jpeg
(中軽井沢のハルニレテラスで毎年梅雨の時期に行われる「アンブレラスカイ」。この日、2019年6月10日はちょうど雨が降っていた。今年のアンブレラスカイはコロナ禍のため残念ながら中止となってしまった。)

誰もが知っているように、「避暑地としての軽井沢の魅力を発見した」のは宣教師アレキサンダー・クロフト・ショーである。

桐山秀樹、吉村祐美著「軽井沢の歴史と文学」を参考に、軽井沢誕生譚をまとめてみた。

軽井沢一帯は、軽井沢、沓掛、追分の中山道3宿をのぞき、長い間荒れ地だった。英国国教会宣教師アレキサンダー・ショーが、明治政府に招聘された教育者ジェームズ・ディクソンと共に軽井沢を旅した明治19年も、そうだった。明治に入ってから江戸時代の幹線道路中山道とは別のルートで鉄道と国道が作られたため、3宿もすっかりさびれてしまっていたが、二人は軽井沢宿にひっそり残る宿屋「亀屋」(後の万平ホテル)に泊まった*。

*ショーが初めて軽井沢を訪ねた機会については、諸説あり、軽井沢新聞前編集長の広川小夜子さんは、ショーの次男ノーマン・リマーの日記に長男と次男の3人で初来軽したことが書かれていることを、確認している。

実はこの二人以前に、多くの外国人が軽井沢を訪れ、その素晴らしさを記録に残している。ガイドブックまで作成したのが、日本史にもよく登場する英国公使館通訳アーネスト・サトウ。

当時の日本人にとって軽井沢は、浅間山の天明噴火(1783)による傷跡がそのまま残る、「五穀生ぜず」と言われた「荒野」であったが、欧米からの外国人にとっては、夏になると草花が美しく咲き乱れる草原と青々しい森の、欧州の故地を思い出させる「懐かしい風景」であり、冷涼な気候と乾燥した空気の「健康的避暑地」だった。

ではなぜショーとディクソンの名が軽井沢誕生の立役者として記憶されるようになったのか。二人はあまりの美しさに魅了され「家族を引き連れ避暑に来た」からだった。それ以前の外国人たちはただの旅行者。だが二人は避暑を目的とした初めての外国人長期滞在者となった。そして当時の外国人コミュニティに軽井沢の避暑地としての素晴らしさを伝え、やがて日本人の有力者も別荘を持つようになり、こうして軽井沢の避暑地としての歴史が始まった。

明治以降、外国人に見いだされたリゾート地の日光や箱根とは異なる軽井沢の魅力は、ショーとディクソンに帰せられる。

ショーはキリスト教の宣教師。その高い宗教的道徳心をもって家族と共に「健康的で質素で地元の人々を大切にする生活」を送った。軽井沢の別荘所有者第一号でもある。「五穀生ぜず」だった軽井沢一帯がそののち高原野菜の産地となったのは、ショー始め初期外国人滞在者たちが、キャベツなど高原野菜の栽培を教えたからだと言われている。

Shaw Memorial Hall.jpg
(アレキサンダー・ショーが最初に建てた教会。今は「軽井沢ショー記念礼拝堂」として一般公開されている。)

ディクソンは大学教授らしく、亀屋の主人佐藤万平を通して、西洋式の生活習慣を軽井沢に取り入れるよう、努めた。そして牛乳の作り方、パンの焼き方など含めた西洋型のリゾート生活様式が軽井沢に確立していった。

こうした理念のもと軽井沢はさらに発展する。

岡村八寿子著「祖父野澤源次郎の軽井沢別荘地開発史」によると、軽井沢開発史には4人の人物が係わっている。

まず日比谷公園や大濠公園を設計・改良した造園家、本多静六(1866-1952)。彼は、長野県の委嘱を受け「軽井澤遊園地設計方針」を作り、回遊道路、植林、造林など自然を活用し、かつ利便性のある街作りの基本設計を行った。

次に独自に渡米、帰国後洋風住宅の建築業を始めた橋口信助(1879-1928)。アメリカ滞在中に学んだ建築技術を活かし、「真の別荘地とは何か」を考え、軽井沢にてその理想を実現すべく努力した。

そして関東大震災後の東京復興計画を立案し実行した政治家、後藤新平(1857-1929)は、豊富な海外経験を元に軽井沢の都市計画案を提供した。

第4の人物は、実際に軽井沢の原野を買収し、今につながる街並みを持った軽井沢を開発した野澤源次郎。彼を動かしたのは、上記の3人の先覚者たちだ。

かくして、日本有数のリゾート別荘地「軽井沢」が誕生した。整った道路網、森の中の散歩道、雲場池、植林された森(そのため湿度は高くなったが)、公共施設など、当時としては先進の田園都市機能を備えていた。

軽井沢のどこが、他のリゾートと違うのか。

突き詰めて言えば、軽井沢にはショーのキリスト教的清潔さ、質素さ、正直さが生きているからだと思う。

「娯楽を人に求めずして、自然に求めよ」とは、軽井沢に別荘を持った外国人コミュニティのスローガンであり、今でも軽井沢のスローガンとして使われている言葉である。だから、軽井沢の朝は早く、夜も早い。

リゾートとは本来保養地のことである。軽井沢は気候的・環境的にもまさしく健康回復を目的とした「保養」に向いていた。ショー曰く「屋根のない病院」だ。

別荘地とは何も金持ちだけのものではない。前述の橋本信助が提唱しているように、「都会で疲れた人々が心身とも英気を養うところである」「善良な風俗と正常な生活環境があり、婦女子でも安心安全に過ごせる場所である」「知的レベルの高い文化施設が整備されているところである」。

前述の4人を含めた軽井沢開発の先駆者たちは、ショーの質素で自然と共にある避暑・保養・別荘生活の理念を十二分に理解していたから、今の軽井沢がある。

住宅や商業施設など様々な規制がある軽井沢町だが、町としてはただただ「軽井沢誕生の基本理念」に忠実なだけである(商業主義が跋扈する現代ではそれがとてもむずかしいことなのだ)。

新型コロナの感染嵐をなんとか遠ざけている軽井沢。どうしてかは、「軽井沢の基本理念」を考えてみれば、納得である。

ウイルス感染の大きな要因は、「密」と「口からのエアロゾール拡散」という。

自然、人々、質素、健康を大切にするショーの理念を引き継ぐ軽井沢には、「夜の街」はない。風俗もない。高地ゆえ、空気もきれいで、殺菌力のある紫外線も降り注ぎ、フィトンチッド溢れる森があり、空間的にも余裕がある。

軽井沢の歴史を知らない娯楽目当ての観光客も、ショーの遺産である軽井沢の雰囲気に包まれると「ここは普通の観光地とは違う」ことを感じ取り、「家族・友達と過ごす落ち着いた時間の大切さ」を感じるに違いない。だからどんちゃん騒ぎしたりハメを外したりしない、いやできない。

Kumobaike.jpeg
(雲場池でウェディング記念写真撮影。たぶん二人は台湾からの観光客だったと思う。)

「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」とは、一般に「(資産、権力、知力など様々な)力を持っている者は、それ相応の責任がある」というような意味に理解されている。歴史的にも、高貴な者が文化・文明を作り上げてきた面はある。軽井沢の別荘地としての文化もそうである。

学者、作家、音楽家、俳優など、社会的に成功した人々も、たくさん軽井沢に住んでいたり、別荘を持っていたりする。そういう人々が良い意味での高貴な精神を発揮し、今後も率先して軽井沢の文化を守ってもらいたい。

そして今は庶民もかつて高尚だった高度な文化的活動を普通に行うことができるようになっている。軽井沢の保養地・別荘地としての文化は、ショーが考えたように、軽井沢の理念に賛同する者であれば、経済的格差に関係なく誰でも共有できる。

富裕者、一般庶民、行政、商業者、そして観光客。こうした様々な人々が、ショーの見た「本当の軽井沢」に共感し、それを共に維持していけることが、理想だろう。

最後に、今後どうしても抗いきれない感染の波が軽井沢を襲ったとしても、「本当の軽井沢」の理念は揺らぐものではないと信じている。


読んでいただきありがとうございます。

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posted by ロンド at 16:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 軽井沢
プロフィール
ブログネームは、ロンド。フリーの翻訳者(日英)。自宅にてiMac を駆って仕事。 2013年に東京の多摩ニュータウンから軽井沢の追分に移住。 同居人は、妻とトイプードルのリュウ。 リュウは、運動不足のロンドを散歩に連れ出すことで、健康管理に貢献。 御影用水温水路の風景に惹かれて、「軽井沢に住むなら追分」となった。