2017年10月27日

英語はたいへん アジア編


英語はたいへん。まず話せるようになるまでがたいへん。話せても、なまりのない発音ができるかどうか、も大切。英語を母国語とする人たち(日本語では「ネイティブ」と言いますが)と同じように発音できるようになるのは、大人になってから(中学以降ですかね)英語を学ぶ者(私もこれに該当します)にとっては至難の業。

それは俳優たちにとっても同じ。俳優たち、アメリカ映画(というか、英語が使われる映画)に出演する俳優たちのことです。ではまずアジアの俳優たちについて感じたことを書きます。

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ハリウッド映画に出る主なアジア人といえば、香港、中国、韓国、日本です。映画産業として最も歴史があるのは日本と香港。それゆえ、日本人と香港人(後には大陸の中国人)の俳優たちは、自国なまりを持ったまま英語を話して、ハリウッドで使ってもらえます。

「男は黙って」の日本人俳優、三船敏郎は「レッド・サン」で侍を演じましたが、あまり英語は話さなかったものの、発音はよかったです。確か最初のセリフは、I want to know your name. だったと思いますが、「アイ・ウォントゥーノー・ユアネーム」というカタカナ英語発音ではなかった。

「ブラック・レイン」など複数のハリウッド映画に出ている高倉健もなまりのある英語を話していましたが、彼の英語は「英語が話せる日本人」の英語だったと思います。同作で共演した松田優作は英語がかなりうまかったと聞きます。早生しなければ、あのあとすぐハリウッド映画に出たはずです。数本悪役をして最後には主役級のハリウッドスターになったかもしれません。残念。

渡辺謙と真田広之の英語は、高倉健より発音は良いと思います。二人とも米国滞在が長いので当然ながら英語は話せるでしょう。彼らは演技力と存在感ゆえ、ネイティブ英語でなくともハリウッドの映画、アメリカのテレビドラマ、ブロードウェーの舞台に出ています。

帰国子女でない日本人でネイティブ英語を話した俳優は、私の知る限りでは、別所哲也、工藤夕貴、松田聖子です。別所哲也は「クライシス2050」でデビューしましたが、初めて見る俳優だったので、その発音から日系アメリカ人かと思いました。完全にネイティブ発音ではないかもしれませんが、かなりそれに近い発音だと思います。工藤夕貴は「ヒマラヤ杉に降る雪」で日系アメリカ人の役を演じたわけですから最初からネイティブ英語を話す役です。だからネイティブ英語でした。

松田聖子は、私の聞く限りほとんどネイティブ英語の発音でした。彼女はアメリカのテレビドラマ「The Big Easy」に二話ゲスト出演し、Yuki という日本人女性の役を演じました。ほぼ完璧な英語に聞こえました。また、大ヒットドラマ Bones でもジャーナリスト役でゲスト出演しましたが、それでもネイティブ並の発音だったと思います。歌のうまい人はけっこう英語の発音が良いのですが、彼女もすごく努力したのだと思います。

中国系俳優の多くは気にせずなまりのある英語を話します。「燃えよドラゴン」で鮮烈な世界的デビューを果たした永遠のヒーロー、ブルース・リーも、なまりはありました。同映画で弟子に指導する場面で言った「Don't think! Feel!」というせりふは有名です(みんなが真似をする)。

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(香港にあるブルース・リーの立像)
 
ジャッキー・チェンもジェット・リーもなまりのある英語です。ジェットのほうがジャッキーより発音は良かったと思います。そもそも彼らのアクションと魅力に、言葉は必要ないでしょう。

最近、中国資本が入ったハリウッド映画が多く作られ、中国人俳優も多く出演しています。「インディペンデンスデイ:リサージェンス」のアンジェラベイビー、「グレートウォール」「キングコング」のジン・ティエンなど、かなりきれいな英語を話しますが、ネイティブではありません。

中国人は芸名に平気で英語名を使います。伝統でしょうけれど、英語の名前を使ったくらいでアイデンティティはまったく影響を受けない、という自信だと思います。

さて、国の規模としては中国や日本に比べて小さい韓国は、やはり映画業界においてはアジアの競争相手に後塵を拝していると思うのでしょう、幅広い役を得られるよう、完璧な英語を話そうとします。

童顔と鍛え上げられた肉体のアンバランスが魅力のピ(別名レイン)は、「ニンジャ・アサシン」で主役を演じました。英語はほぼネイティブ並だったと思います。もっとハリウッド映画に出て欲しいです。

韓国ではビッグスターのイ・ビョンホン。ハリウッドでも八面六臂の活躍です。「G.I.ジョー」「レッド」でのアクション、「ターミネーター:ジェンネシス」ではなんとターミネーターを演じました。それに「荒野の七人」では七人の一人です。彼もほぼネイティブ英語でした(ネイティブに聞いたら、時々なまりが出る、と言っていましたが)。彼が主役のハリウッド映画を見たいです。

彼らの発音に対する努力は、ものすごいものがあると思います。日本人俳優も外国で活躍したいのなら、それくらいの努力はすべきでしょう。渡辺謙や真田広之は別ですよ、彼らはアクションや演技ですでに国際的名声を確立していましたから、なまりがあっても使ってもらえるのです。

ただ日本は大国ですからね、わざわざ苦労して外国に行かなくても日本国内で十分食っていけるので、そこまで必死になれないのでしょう。残念。もっとハングリーにハリウッドを狙ってもらいたいです。

でもハリウッドでさえ、アジア系俳優たちは正当に扱われていない、と忍従の日々が続いているようです。「Hawaii Five-O」の主役メンバーだった Korean American のダニエル・デイ・キムとグレイス・パークが他の二人の主役白人俳優と同じ出演料を要求した結果、あえなく首を切られたという今年7月のニュースには、驚きました。

映画界も、性別や人種に関係なく、正当な報酬が得られる場所であってほしいですね。

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(有名な「ハリウッドサイン」)
 

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posted by ロンド at 16:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 英語

2017年10月17日

時々、ベジタリアン


ベジタリアンと言えば、「菜食主義者」。その程度にしか理解していませんでした。

このごろよく聞くあらたなカタカナ英語、「ヴィーガン」。軽井沢にも「ヴィーガン料理店」が最近オープンしています。

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(軽井沢バイバス、塩沢交差点そばの森の中にたたずむ古民家が、ヴィーガン料理店の「緑友食堂」。テラスもあってペットと一緒に食べられる。)
 
ベジタリアンやヴィーガンの音だけ聞いていると、なんかもうエイリアンみたいです。

「菜食主義者」とは、「肉類は健康に良くないので食べない」のかと思ったら、違いました。「動物虐待反対」なんですね。深い意味があったのですが、もちろん日本で生まれた考えではありません。日本人はもともとベジタリアン的な食生活をしていましたから。

肉食が主食で、家畜を大量に処理する西洋だからこそ、こういう考え方が生まれたのでしょう。でも健康上の理由も大きいと思います。肉ばっかり食べていたんじゃ、確かに体に悪いですから。

ベジタリアンも驚くほど種類があります。かつて購読していた Time 誌にベジタリアンの特集があって、何タイプものベジタリアンが説明されていました。例えば以下のような種類です。

(1) Vegetarian (ベジタリアン):これが基本で、動物、鳥類、魚介類の肉を食べない。動物性のものは食べないということ。

(2) Lacto-ovo vegetarian (ラクト・オボ・ベジタリアン):ラクトはミルク、オボは卵。つまり乳製品や卵も食べない、菜食主義。これはそれぞれ「ラクト・ベジタリアン」と「オボ・ベジタリアン」に分かれます。前者が「乳製品は摂らないが卵類は摂るベジタリアン」で後者が「卵類は摂らないが乳製品は摂るベジタリアン」です。

(3) Pescatarian (ペスカタリアン):pesca- は「魚」を意味し、肉類は摂らないが魚だけは食べること。どちらかというと健康上の理由でペスカタリアンになる場合が多いようです。

(4) Vegan (ヴィーガン):これは、乳製品も卵も、動物類から派生した製品も一切摂らないベジタリアン。完全菜食主義です。

(5) Flexitarian (フレクシタリアン):何かジョークみたいですが、時々ベジタリアンになる人のことを、こう言うようです。フレキシブルなベジタリアンということでしょう。これはどちらかといえば日本人ですよね。

Times 誌では、(4)はあったかなあ、よく覚えていません。(5)は確かにありませんでした。新しい言葉でしょう。

明治以前の日本人はほとんどペスカタリアンでしたが、肉を食べなかった理由は、宗教的な考え方からだと理解しています。神道の「穢れ(けがれ)」を嫌う考え方です。肉を食べるというのは、動物の命を奪うことですから、それを嫌ったわけです。「穢れ思想」が定着する前から、具体的には稲作が始まってから以降、基本的に日本人は菜食だったと思います。

例外もあります。マタギなど、縄文人の血を濃く残していると言われている人々や狩猟採集の習慣を維持していた人々は、今で言う「ジビエ(狩猟肉)」で生活していました。侍とか兵士のような職業の人々は、やはり体力上の理由で時には肉も食べていたようです。

ちなみに、「菜食主義的」な日本人が長生き、というのは、日本食だけが理由ではないそうです。例えば今は違いますがかつての沖縄は長寿の島だった。その理由は「豚肉」をよく食べていたから、と聞いたことがあります。日本人の寿命が延びたのは、近年の「健康的な日本食+適度な肉食」ゆえとのこと。やはり動物性食品なしでは、完全な健康体にはなれないのでしょうか。

ところでご存知かと思いますが、現在長野県は男女とも日本一の長寿県です。おいしい新鮮野菜をたっぷり食べられるからでしょう。

現代の大量肉生産状況から考えると、動物虐待反対のヴィーガンになるのも理解できます。大量の肉を摂取しなければならなかった欧米では、「愛護意識」が強く働いたのでしょう。日本では、それほど肉食ではないので、そういう意識もあまり働かなかった(ただし供養はしている)。

しかしよく考えると、多くの生物は、他の生物を摂取して生きてきたわけで、人間もそうやって生きてきました。それが生きるということでしたから。そのおかげで知能が発達し、「おもいやり」のような感情が発達し、他の生き物の命を奪うことを躊躇するようになった。

一部の団体が日本のイルカやクジラ漁を批判しています。イルカやクジラは知的生物という理由ですが、ブタもけっこう知的で、犬以上だそうです。であるならば、家畜屠殺にも反対してくださいね。

いろいろな考え方がありますが、いずれにしても生命体が知的になって、高度な知性を得てくると、生きるのがむずかしくなる、ということです。完全な解決法は、さらなる科学の進歩しかないですね。

(1) 動物性食料を、完全合成する(クローン技術とかバイオ技術とか駆使し、人工的手段にて動物の肉と同じものを作る)。
(2) 植物由来の食糧を改良し、人体が必要とする動物性要素を補完する。
(3) 動物性食料を摂らなくてもよい肉体に改造する。

なんだかSFの世界です。

軽井沢のヴィーガンレストラン「緑友食堂」は今年の春開店。「肉のようで肉でない」ハンバーグはタカキビで、白身魚のフライはヤマイモとヒエをもとに作られています。食感や味は肉みたい。海老のフライ風に仕立てられたのはニンジン。彩りがきれいでした。日本はこういう「肉の代替品」は昔から作ってきました。がんもどきがそうです。最近では「豆腐ハンバーグ」もあります。
 
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(「緑友食堂」の「雑こくプレート」)
 
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(「高きびハンバーグ」)
 
こういう技術は日本人が得意とするものなのかもしれません。ベジタリアン時代も日本の料理技術は活躍することでしょう。

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(追分宿そばのガーデニング専門店「フラワーフィールドガーデンズ」に併設されているヴィーガン料理店「RKガーデン」のランチ)
 

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posted by ロンド at 17:25| Comment(0) | TrackBack(0) | おいしいもの

2017年10月08日

続 これが日本人の生きる道


日本人は道(みち)が好きだ。「茶道」「華道」「剣道」「柔道」「書道」、私が恩師から学んだ「英語道」もある。いわゆる何かを行うための「手順」を「道」と呼び、一種の哲学化をしている。

「過程尊重」という思考・行動パターンによって、日本人は「道(みち)」という概念を大切に思うようになった。

本家中国の思想家、荘子による「道」の定義は難しくてわからない。日本人の「道」はそんなに複雑なものではなく、「過程尊重」のことだと思う。

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(「ぼくも散歩の道が好きだ」)

「道」を着実に歩いてきた日本人に、最近は何か異変が起きているらしい。

過労死、ブラック企業、フリーターの増加、定年退職男性の無力感、若い人々の働く意味の欠如感、帰宅恐怖症やフラリーマンの増加、学校でのいじめ、公園デビューなどの近所づきあいの息苦しさ。どうも変な方向に進んでいるように思える。

一部の優良企業、中小企業などの世界シェアトップを占めるオンリーワンの企業、新進気鋭のベンチャーなど、優秀な人々、人並み以上に努力ができる人々はのぞき、多くの労働者は、「働くことについて暗闇にいる」ように思える。

その暗闇は、やはり「過程尊重」にあるのではないか、と思った。

過労死やブラック企業は、制度や倫理の問題とは別に「過程尊重」の勤労精神が悪用されているから生じることだと思う。

学校などのいじめや公園デビューなどの近所づきあいの息苦しさも、「過程尊重」の間違った発現によるものではないだろうか。

フリーターの増加、退職後の男性の無力感、若い人々の働く意味の欠如感、帰宅恐怖症やフラリーマンの増加、これらも「過程尊重」の本能が満たされない、現代の仕事の在り方が問題なのだろう。

「目的指向」の場合は、一番数の多い一般労働者において、強調して言えば、働くのは「自分の自由時間を大切にするため」の手段であって、「人生は楽しむことにある」のだ。

だが日本人は、欧米のような「効率的・効果的な働き方」とか「余暇の活用」とか「人生を楽しむ」とか、そういうやり方は合わないと思う。そういうのはすべて「目的指向」の働き方・生き方である。

「過程尊重」の働き方・生き方は、「仕事の中に、尊重できる過程が存在すること」で、労働に生きがいを感じ、それが人生であり、それあっての「自由時間」なのだと思う。

ではどうしたらよいか。

例えば日本人が発明したものではないが日本で大発展して日本経済の拡大に寄与している「QCサークル」がある。機械化、ロボット化、AI化でますます人の手が入らなくなる現代の労働環境でも、QCサークルは過程を実感できる良い方法だと思う。

労働に哲学を持ってくるのも、一つの方法。代表例は、京セラ創設者稲盛和夫が創出した「京セラフィロソフィ」だ。私も仕事で頻繁に京セラ関連文書を翻訳しているが、それ自体確かに生きる指標になる。叱咤激励されすぎて「勘弁して」と尻込みしたくならないわけではないが、みんなで一緒にやれば何とかできる。稲作と同じ。一人じゃないんだ、皆がいるんだ。

内容にもよるが、創設者の「企業哲学」「人生哲学」を実践することは「過程尊重」にもつながる。実際そういう企業も増えているという。

また、近年疲弊が激しい農業においても、解決法はある。例えばトヨタが十八番の「カイゼン」を農作業に応用し、効果を上げているという。農作業プロセスを見直すよう提案するわけだが、「なぜ、それをそのようにやるのか」を問いかけることが基本という。

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(田植え祭りでの、田植え。現代では、手作業での田植えは、イベントなどで見られるだけ。出典:ウィキメディア・コモンズ、撮影:mahlervv)

どんな仕事でも、「なぜ、それをそうやるのか」を考えることは、組織的なものがなくても、QCサークルと似た効果を発揮できると思う。

さらには、仕事のやり方自体に最初から「過程尊重」できるようなプロセスを設けることだ。

今は「プロセスをいかに省くか、効率的にするか」ばかりが求められる。だがそれを突き詰めると「支配する経営者」と「支配されるロボットのような労働者」に二分されてしまう。結果として、労働者の意欲低下、暴動、社会の没落に発展するかもしれない。

それだったら、少しプロセスを増やしてでも、「過程尊重」できるビジネスモデルを作ったほうが、結果としてはより良い物ができるし、労働者も生きがいを持てるし、二重三重の恩恵が得られると思う。

単に、欧米型効率的労働とか人生を楽しめとか休みを取れとか、「過程尊重」ではない人たちの真似をしても、日本人には実践できないだろう。

誰か偉い学者さんが、川田氏が見いだした「過程尊重」の応用範囲を広げ、「日本の生きる道は過程尊重にある」と提唱して欲しい。働き方の改革などにおいて、例えば長時間労働の是正など具体的に対応策を講じるのは良いが、根本的には「過程尊重」という哲学が必要であり、「労働において過程尊重できるプロセス」を加えることが不可欠だと思う。

それが日本人のやってきたことだからだ。それが日本人が一番うまくできることだからだ。それが日本人の生きる道だからだ。

なお、人間にはいろいろな要素があるので、日本人全員が「過程尊重」の精神を持っているわけではなく、「目的指向」の人も「パイオニア精神」の人もいる。外国でも同様。だから、「一般的に」「相対的に」「傾向がある」「多くの場合」などという限定句を適宜差し挟んで、読んでいただけるとありがたい。

また当然「過程尊重」のマイナス面もあるので、それらの是正は行うべきである。ただ自分の思考・行動が「過程尊重」から来ていることを理解しないと、マイナス面も見えないと思う。

最後にもう一度言いたいこと。

attachment 2.png

(稲の苗を植える女性、早乙女。豊作を祈る神聖な儀式。おそらく早乙女の役割を終え笑顔で記念写真を撮ってもらった若い女性たち。戦中か戦前の写真と思われる。出典:ウィキメディア・コモンズ)

欧米人に「日本人は働き過ぎ」などと言われたくない。「日本人は人生の楽しみ方を知らない」なんて言ってもらいたくない。

「仕事をすることが生きがいで人生そのもの」「仕事をきちんとすることにこそ、幸せがある」と思って何が悪い。

だからこそ「過程尊重」がきちんとできる働き方を、時代に合わせ新たに作り上げるべきなのである。そこに日本人の生きる道があると私は信じている。

(追記)浅学でなんの権威も権力も持たない私の単なる私論ではあるが、自分としてはかなり本質を突いていると思っている。いつか軽井沢を訪れる外国人に通訳ガイドをする時には、これら日本文化をしっかり伝えたい。


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posted by ロンド at 16:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 人類学

2017年10月03日

これが日本人の生きる道


「日本人はよく働きますね。なぜですか」「なぜ道具を大切にするのですか」と外国人に聞かれたら、どう答えるか。
  
こうした質問にどう答えるのか。通訳やガイドに携わり、翻訳業を始めてからも勉強会など様々な機会を通し日本人や外国人とディベートやディスカッションを行うことが多かった私には、答えを見つけておく必要があった。
 
「なぜよく働くのか」については、簡潔に言えば「日本人は働くのが好きだから」とか「労働を美徳と考えているから」などが答えになろう。
 
じゃあ「なぜ美徳と考えるのか」については、何年もの間、良い答えができなかった。だがいろいろ読みあさって、納得できる答えを見つけた。
 
それは「日本の四季」と「稲作」である。
 
四季がはっきりしている日本では、3ヶ月ごとにやるべきことが異なる。稲作を例に取ると、春は稲を育て田んぼを耕し田植え。夏は田んぼの水管理。秋は収穫、脱穀。冬は土作りや道具作り。年がら年中やることがある。欧州などの小麦作に比べ、稲作は手間がかかりやるべきことが多く、必然的に各過程をちゃんとやらないと米ができない。 

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(美しい稲穂)
  
その作業が2千年も続いたのだから、「リズム良く的確に働く」ことが日本人のDNAに染みついている。労働が生きがいでもある。
 
また研究者によると、稲作を行っている人々(主には東洋人)は、小麦作の人々(主には西洋人)より、「相互依存的」で「和を重んじる」傾向があるという。それは稲作が水の管理を含めその栽培・収穫には皆の力が必要だからだ。ところが小麦となるとそれほど共同作業は必要なく個人的な労働で作れるため、西洋は個人主義的考え方が進んだ、という。
 
「日本人が労働を美徳とする」のは、「食糧生産のため、生きるため、きちんとていねいに、皆で力を合わせ仕事をしてきた。それが皆を幸せにした。一人ではできないことも皆でやればできる達成感、満足感、連帯感。幸福感。だから働くことを正しい、美しいと思うようになった」。
 
とりあえずこのあたりで納得していた。
 
さて道具について、「日本人はなぜ道具を大事にするのか」という問い。イチロー選手がバットやグローブをきちんと手入れをし大切にする行為は、アメリカ人を感動させた。やはりそこまで道具を大事にするのは、日本独自であろう。
 
その答えは、「日本人は、何かをする場合に、その過程も大切にする。結果が出ればなんでもよい、というのではない。途中の経過も大切だと思っているのだ。だから道具を大切にする。」
 
さらに踏み込んで、「日本人は『針供養』というものをする。使用済みの針を捨てる前に『ご苦労さん』とねぎらう。どんな道具についても、同じようなことをする。これも道具を大切にすることの現れ」と説明できる。
 
日本人は「経過」を大切にする。目的地までの「道」を大切にすることは、私も気がついていた。だが根源的なところまで分析していないような気がしていた。
 
美化するわけではないが、日本人は「秩序良く、きちんと、協調性をもって働く勤労意欲の高い民族」だと言える。だから昔から品質の良いものを作っていた。
 
だが「なぜそうなのか」という長年答えられなかった根源的な疑問に、最近やっと答えがでた。
 
数ヶ月前オンライン書店で見つけてダウンロードして読んだ川田順造著「〈運ぶヒト〉の人類学」が答えをくれた。
 
同書は、ヒトは物をどうやって運んだのかを考察したもの。著者はわかりやすくするため世界を3つのモデル(「A=道具の脱人間化」「B = 道具の人間化」「C = 人間 の道具化」)にわけた。
 
簡単に言うと、Aは「誰がやっても同じ結果が出るようにす る」ことで、代表例は「機械化」を進めた⻄欧。Bは、「人の巧みさによって道具を 使いこなす」ことで、代表例は道具を巧みに使いこなしたり、巧みの技が確立された りしている日本。Cは、身体的特徴である⻑い手足を使って農作業をするアフリカの モシ族。

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(頭に荷物を載せて運ぶインドの女性。川田氏によると、頭に物を乗せて運ぶ方法は、最も古い運搬法の一つと言う。約6万年まえにアフリカを出たホモ・サピエンスの一団はこの運搬方法を使っていただろう。)
  
著者は、日本では「道具の人間化」により「過程尊重」の傾向が生まれ、西洋での「道具の脱人間化」は「目的指向」となった、と言っている。
 
この「過程尊重」は、「日本人の労働意識」を十分説明できる考え方だと思った。
 
「道具の人間化」とは「道具を人間のように扱う」わけで、つまりは道具をちゃんと使いこなす、道具を大切にする。それは必然的に経過(プロセス)を重視する、ということになる。
 
この「過程尊重」は「四季・稲作」のアジア的特徴を共有するアジア人(特に東アジア)全体に見られるものではない。中国や韓国などよく働く優秀な人々ではあるが、彼らの作るものの品質や作り方や手順などを見ると、日本人ほど「過程尊重」の意識は強くないと思われる。
 
この日本人特有の思考・行動傾向が芽生えたのは、日本列島における稲作の開始より以前に遡るのではないだろうか。
 
研究者らによると「過程尊重」か「目的指向」か、などの違いの根源は、はるか昔数万年前に使われた石器の違いに遡るという。日本は細かい作業ができる小型の石器(チョッピングツール)が使われていた地域に入る。欧州などは大型の手斧風の石器(ハンドアックス)。作り方も使い方も異なるという。

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日本は、「細かい作業」の伝統が1万年以上も前に定着し、それが引き継がれた、と私は思っている。世界で最古級の土器は日本でも発見されている。縄文土器の芸術性は世界的だ。手先が器用な人が日本列島には多く住んでいたのだろうし、またそういう伝統も代々継承されていったのだろう。
 
さらに征服民の侵略など、固有種族や文化を根こそぎ破壊するような出来事もほとんどなかったため、「結果だけ求められる」のではなく、時間や気持ちの猶予があって可能になる「経過もみてあげよう」という気分も保たれたのだろう(ちなみに大陸や朝鮮半島からやってきて後の弥生文化の成立に寄与した人々は、侵略的ではなく融和的移住だったことが発掘された人骨の分析からわかっている)。
 
つまり、今の日本人の「過程尊重」の思考・行動パターンは、少なくとも数千年の歴史がある、ということだ。全員ではないが多くの日本人はこのパターンにどっぷり浸かっている、と言っても過言ではない、と思う。
 
今生きている多くの日本人にとって、「なぜ仕事をするのか」「仕事をどう思っているのか」「仕事と人生とどういう関係にあると思っているのか」など、その基本は「過程尊重」にある、ということなのだ。
 
長くなったので、次回、これから日本人はどうあるべきか考えたいと思う。
 

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プロフィール
ブログネームは、ロンド。フリーの翻訳者(日英)。自宅にてiMac を駆って仕事。 2013年に東京の多摩ニュータウンから軽井沢の追分に移住。 同居人は、妻とトイプードルのリュウ。 リュウは、運動不足のロンドを散歩に連れ出すことで、健康管理に貢献。 御影用水温水路の風景に惹かれて、「軽井沢に住むなら追分」となった。