2018年09月28日
東京の多摩ニュータウンは広い歩道、街路樹、木々と芝の公園があちこちにある「緑の街」。ジブリのアニメ「平成狸合戦ぽんぽこ」のモデルともなった大規模開発の環境重視型計画都市である。
もともと「多摩丘陵」なので地形は起伏に富み、走るのが好きな我が家のワンコにとっては、上ったり下りたりと走り甲斐のある公園が多かった。
公園は広く、25メートルの長さがある特別なリードを使って50メートル(以上)を思い切り走らせることもよくあった。犬はそもそも走る動物なのだが、普通の散歩だとそんなに走らせる飼い主はいないため、子供たちが我が家のワンコが走っているのを見ると、犬の疾駆を見たことがないのだろう、「すげー、はえー」と驚いて大騒ぎ。「ボルトとどっちが速い」なんて訊かれて、「うちの犬よ」と妻はつい言ってしまうのだった。
(多摩中央公園の芝生を疾走するうちのワンコ。見えないが25mリードがついている。「待て」をさせ、まず私が25m先に移動。「おいで」の合図で、おやつを持ったはるか向こうの妻をめがけて走り出すワンコと同時に私も全速力で走る。私が追いつけなくなってリードが伸びきった時点で疾走はお終い。こうしてワンコは「50m+飼主が走れた距離」を思い切って走れるわけだが、それでもワンコは物足りなく、飼主は息絶え絶え。)
私たちが5年前まで住んでいた多摩ニュータウンの一街区、若葉台(稲城市)は新しい街だったので、小さな子供を連れた母親たちも多かった。
よちよち歩きの子供たちは、怖がりもせず「ワンちゃん」と言いながら、散歩中の犬に近寄ってくる。
我が家のワンコは他の人や犬には決して吠えたりせず、いつも穏やかなので、そんな小さい子供が寄ってきても、黙って触るにまかせていた。もちろんほぼあり得ないが不測の事態を防ぐため、リードはちゃんと掴み、ワンコも押さえている。
そうした若い母親たちと立ち話をしていると、大人しい我が家のワンコは「お利口ね」と言われる。まあ、きちんと普通のしつけをすれば、たいていの犬は「待て」「お座り」「お手」「伏せ」などはできる「お利口」な動物である。
そして私もまた、目の前の三歳児くらいの子供を見ていると、つい言ってしまうのだ、「犬は三歳児と同じくらいの知能があるんです」と。
これを聞いた若い母親たちの反応は二通り。
「そうなんですか」と笑顔で驚く。これはつまり「犬もけっこう賢いんだね」「うちの子供と同じくらいの知能なんだね」と犬を肯定的に捉えている、ということ。
もう一つは、「はあ」とちょっとこわばった表情になって反応が鈍い。つまり「うちの子を犬と同列に扱うなんて、失礼な」と内心怒っているということ。
後者の場合、「しまった」と焦る。
これまでの経験から、前者の反応の方が多い。その場合は、犬の賢さを知っていて、それでもなお人と犬との知能の違いはわかっている人たちであろう。
後者は、犬との関係があまり深くないのだろう。だから人間と動物は違うんだ、と誤解している。
実際のところ、犬の知能は人の三歳児以上という人もいる。そして犬と暮らしてわかることだが、人と犬とは思考パターンが同じ部分もけっこうある。それは、人間も動物であり、同じ哺乳類なので脳的には重なっている部分があるからだ。
例えば、私も食後、妻が冷蔵庫から何かを取り出そうとしているとき、うちのワンコと同じ心理状態でいることがある。「何かおいしいもの(デザート)が出てくるかな」という期待感である。そのとき、その期待感以外の思考はない。その時私とワンコは一体化しているのだと思う。
多摩ニュータウンは、ペットのしつけ先進地域。どこの公園に行ってもたいていの犬はきちんとしつけができていて、大型犬でも和犬でも吠えかかってくるようなことはほとんどない。そして、「犬立入禁止」の芝地も一切ない。
ニュータウンの中心地「多摩センター」駅から歩いてすぐの中央公園では、休みともなれば広い芝地に家族連れやカップルがシートを敷いて、お弁当などを食べている。グループでダンスの練習をしたり、楽器を弾いている若者やおじさんたちもいる。犬もいっぱいいる。しかし芝地にウンチなどない。
そんなペット先進地から引っ越してきた、犬に優しい町軽井沢。ペット連れが多く、ペット同伴可の店も多く、人々のワンコを見る目はあたたかい。「芝生ペット立入禁止」の公園があるのは残念だが、観光地ということもあり、特に気を使うのであろう。また、住民だけが犬の散歩をさせるわけではないので、「旅の恥(ウンチ)はかき捨て」という人もいるのだろう。
観光客の多いプリンスアウトレット内の芝生は一部を除きペット可。ペットが入れるお店も増えており、我がワンコの好きな「散歩スポット」の一つである。
プリンスアウトレットでは、けっこうたくさん親子連れを見かける。やっぱり三歳児程度の子供は、「ワンちゃん」と言って寄ってくる。そしてまた懲りずに、つい言ってしまうんだ。
「犬は三歳児と同じくらいの知能があるんですって」と。
返事は意外にも、「そうなんですってね」と笑顔で返されることが多い。さすが軽井沢に来るということは、犬についての理解もある、ということか。
しかし、これからは相手の様子を見ながら、犬に親しみを持っているかどうかなど見極めたうえで、物を言うことにしよう。
実際に人に言われたことで、納得したのは、「子供は三歳まで犬と同じだけれど、そこから人間になっていく」というもの。
そう、三歳児はそれからどんどん人間になっていく。ところが犬はいつまでたっても三歳児のまま。
もうすぐ13歳で人間でいうと「68歳」に相当するが、子犬のようによく走る我が家のワンコも、永遠の三歳児である。
(ヒトとネコとイヌのスリーショット。みんな似たような賢さ?)
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自然の驚異
2018年09月15日
英語を仕事にしていると、いろいろな情報が手に入る。日本語で知るより英語で知るのが早いこともある。今よく聞かれるLGBTもその一つ。
LGBTは、lesbian, gay, bisexual, transgender の頭文字を取ったもので、一般的には、同性愛を含めた多様な性的指向を持つ人々を示すものと理解されている。
LGBTという言葉が作られるはるか以前、ゲイといえばエイズ問題だった。
思えば通信社勤務時代、世界中に蔓延しつつあった「エイズ」の最新情報を、英語の文献で読み、訳した。エイズは、エイズという病気で死ぬのではない、免疫がなくなり、普通だったらかからないような病気で死ぬ、ということがわかった。またHIV保菌者の子供にキスしている看護師の写真があり、「キスしたくらいではうつらない」ことも知った。
翻訳者として独立する前まで勤めていた語学研修会社では、同僚はゲイのアメリカ人だった。彼は有能であり、気むずかしい性格だったが、パートナーの日本人男性を大切に思っていたことはよくわかった。
当時同姓愛の理解において役立った映画「フィラデルフィア」。エイズを発症した弁護士が、彼を解雇した経営者たちを訴えるドラマである。トム・ハンクスとデンゼル・ワシントンの演技が素晴らしかった。
(1993年の映画「フィラデルフィア」のポスター。この映画でトム・ハンクスがアカデミー主演男優賞を取った。)(Wikimedia Commons)
この映画で一番気づかされたことは、性的指向差別についてのことではなかった。トム扮するアンドリュー・ベケットは、パートナーのミゲル(アントニオ・バンデラス)に看取られて死ぬ。そのとき、「ああ、この二人は愛し合っていたんだ」と感じたことだ。
それまで同性愛については、「性的指向」にしか目がいかなかった。だが基本的なことは、そこに「愛情」がある、ということだった。当然といえば当然であるが、「フィラデルフィア」を見るまでそれが見えなかった。
人として大切なのは、人を普通に愛せること。犯罪的でも反社会的でもないこと。それが一番大切なことであって、性的指向がどうであろうと関係ないではないか。
社会にとって好ましくないのは、人を傷付ける暴力的な人々はもとより、暴力は用いなくても横領、専横、収賄、セクハラ、パワハラなど、一般会社員のみならず公務員、警察官、医者、政治家など職業に関係なくあちこちにいる人々である。
ゲイが「生まれたときから、心と体が別」という先天的な要因の場合には、「目の下にホクロがある」のと変わらない特徴なのだが、それさえ理解したくない人たちはたくさんいる。
LGBTが生まれてくる要因は複雑であり、先天的であろうとなかろうとどんな性的指向でも、良い市民である限り、愛すべき家族であり友人なのである。
アメリカではハリウッド俳優がどんどん自己の性的指向を表明している(ちなみに私は「カミングアウト」(come out of the closet)という言葉はあまり使いたくない。なぜクロゼットに隠れていなければならなかったのか、と思ってしまうからである)。
ジョディ・フォスターも2013年にゲイであることを明らかにした。彼女のパートナーは女性で、本人が産んだ子供は精子提供によるものとうわさされている。彼女がアカデミー主演女優賞をとってもおかしくなかった映画「コンタクト」は、SFファンの私にとって忘れられない映画である。
日本でも、特に芸能界や娯楽界におけるゲイの人たちの努力により、ゲイの認知度も向上してきている。俳優でも歌手でもキャリアや人気を犠牲にすることなく「私はゲイ」と普通に言える環境が整ってほしい。今は著名であればあるほど表明は大変だと思うが、それだけ理解促進につながるはずだ(最近では勝間和代さん、ロバート・キャンベルさん)。性的指向がどうであれ、私がファンである気持ちは何も変わらない。
今年1月NHK放映のドラマ「女子的生活」でトランスジェンダーを演じた志尊淳。ハイヒールを履き、自然なメイクと物腰で普通の女性にしか見えない演技が印象的だった。このドラマは実際のトランスジェンダーがアドバイザを務めているので、トランスジェンダーの心情がよく描かれていた。
驚いたことに、LGBTは生産性がない、と言っている人がいる。LGBTであるかどうかに関わりなく「生産性がない」人はたくさんいる。しかし人口が減っているのはそういう人たちとは関係ない理由であることは明白だと私は思うが。
広い意味で「生産性がない人」には障害者、病人、怪我人、高齢者などが含まれるのだろうが、実はこういう小数の人々(マイノリティ)を大切にすることは人類の生存において「必要」なことだった、という仮説がある。
人類がまだアフリカにいて狩猟採集生活をしていたころ、人は生命体ゆえ障害者も生まれ怪我人も出る。こうしたマイノリティは「小数」ではあっても「必ず一緒にいる仲間」である。そして彼らを思いやる人は、周りの人々から慕われるようになり、子孫を残す可能性も高くなる。「マイノリティ保護」はグループ全体で生存率を高めるため必要な行動だった、という説である。
また人類を含む高等霊長類では「ミラーニューロン」という、相手を見ているだけでその相手と同じ反応を脳内に起こす神経細胞がある。つまり「共感」能力が生まれながらに備わっているのだ。
「マイノリティを理解し大切にする」ことは人の人たる所以だった。
ところがそういう共感能力は、収入が高い人ほど低くなるという研究結果がある。
指導的立場にある人は一般に収入も高いとされるが、本来人類のリーダーであるということは、「マイノリティの人々を守れる人」ということであって、その気がない、その能力を失ったリーダーは、リーダーの資格どころか人類の資格がないということになる。
本ブログでも記事にし、今もアクセス数の多いフレディ・マーキュリー。ついにラミ・マレックがフレディを演じた映画「ボヘミアン・ラプソディ」が11月に日本で公開される。彼はバイセクシュアル。女性も男性も愛し、愛多きゆえ早世してしまった。
歌とパフォーマンスで人類を魅了し、音楽の歴史に名を残し、それで彼の生産性や性的指向を誰が問題にしようか。
2017年度英国議会開会式におけるエリザベス女王のスピーチでは、国をあげてLGBT権利の擁護に努めることが表明された。
My government will make further progress to tackle the gender pay gap and discrimination against people on the basis of their race, faith, gender, disability, or sexual orientation.
「我が政府は、性別による賃金格差問題および人種、信条、性、障害、性的指向などにもとづく人々への差別に対しさらに力を入れて取り組む」
(2011年、当時のオバマ米国大統領とともにゲストを迎えるエリザベス女王。対面しているのは俳優のコリン・ファース。この年「英国王のスピーチ」で、苦労して吃音という発話障害を克服した、女王の父ジョージ6世を演じアカデミー賞を受賞した。同映画のクライマックス、ドイツへの宣戦布告スピーチは圧巻であった。)
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映画・ドラマ
2018年09月01日
ロボットが「ターミネーター」みたいに人類を抹殺しようとする、なんて映画の中だけの絵空事、ではなくて本当に起こりうると言ったら、どうだろう。
ロボット、つまりコンピュータなどの人工知能(AI)が人類の知能を超える日は意外と早く来る、と言われている。AIが人類の知能を超える現象(技術的特異点)は「シンギュラリティ」と呼ばれ、多くの科学者や技術者がそのための研究をしている。シンギュラリティはもうすぐ(2045年)来るという研究者もいる。
知能的(と言えるかどうかわからないが)には、AIはチェス、囲碁、将棋などですでに人間を凌駕している。
「翻訳」などの仕事もまもなくなくなると言われている(あっ考えたくない・・・)。だとしたら、対人関係や事務関係の仕事は、ほとんどAIに取って代わられるだろう。
自動運転の実現ももうすぐ。スマートスピーカーがさらに進化し、ホーム執事が出現する。仮想現実も、映画「レディ・プレーヤー1」の世界は目前。楽しいことばかりではなく、大失業時代も同時にやってくる。
先日亡くなった車椅子の天才科学者スティーブン・ホーキング博士が、「完全な人工知能の開発は、人類の終焉を意味することになるかもしれない」とAIの発展に警鐘を鳴らしていたが、それはこのように人間社会を壊してしまうからであろう。
「シンギュラリティ」が来なくても、こういう状況は10年もしないうちに、徐々に現実問題として私たちの前に現れてくるはずだ。
さて、主題である「ロボットはターミネーターになるか」だが、その前に、AIが「意識を持つ知的な(機械)生命体」になれるか。
学術的バックグラウンドがまったくない、ただのSFファンである私だが、科学的知見を無視し、SFマニアならではの厚顔無恥さで、私見を述べてみたい。
生命体の本質は、「定命性(じょうみょうせい)(寿命が限られていること)」と「継続性(生存しようという意志)」である。
生命体はすべて寿命がある。そしてそれを前提に存続しようとし、子孫を残す。あえて今の人間の感情で表せば、命の限りがあるからこそ生きていることを愛おしいと感じる。また同族を含んだ自分たちの子孫を残すため自らを犠牲にできる。そこから同朋に対する慈しみの気持ちが生じる。
さらに生命体の存続で必要なのが、他の生命体との共生である。
そもそも生物の細胞は、複数の生命体が合体したものである。細胞の中に「ミトコンドリア」があるのは、学校で教わった。あれは本来別の生命体だったのが、共存のため合体したのだ。
生物は他の生物を餌として食ったりするが、餌ではない生物とは共生している。共生しないと生きられないのだ(腸内大腸菌、犬との共生など)。そこから他者に対するいたわりの気持ちが生じる。
うわべだけなら、普通のAIでも実現可能だ。ありとあらゆるヒトの行動パターン、思考パターン、対応パターンをデータに書き込み、プログラムし、巨大なデータバンクと接続すれば、まったく人間と変わらない対応をするAIが作られるだろう。ヒト以上に有能で優しく思いやりのあるロボットが生まれる日も近い。
(2011発表のホンダのロボットASIMO。ASIMO は、Advanced Step in Innovative Mobility の頭文字を取ったもの、と言っているが、「アシモ」と聞けばSF作家の大御所アイザック・アシモフの名前がまず最初に頭に浮かぶ。だから本当はアシモフの名前をもじったものに間違いない、と思う。)(写真:Wikimedia Commons)
だがそれはすべて「決められたプログラム」によるもの。ヒトを救い楽しませ手伝い、あるいは殺しても、それはもともとヒトの命令によるものであり、自発的なものではない。
それにAIは実質的に不死である。機械自体は耐用年数があるが、データを別のハードディスクに移せば、まったくオリジナルと同じ物が蘇る。死なない物に、生命の大切さ、愛おしさがわかろうか(正確に言えば、「生体保護の思考や行動の必要性が少ない」→「その機能が発達しない」→「命の重要性をあまり認識しない」)。
我が家のワンコは、科学的定義はおいといて、私からすればりっぱな「知的生命体」である。自分で考え、他者を気遣い、遊び、愛し、楽しむことができる。好きな人に会えなくて寂しがり、会えると大喜びし、失敗して怒られるとシュンとする。そして20年もせず「虹の橋」を渡ってしまい、人を悲しませる。それが「生命体」というものである。
もしAIが本当の知性、「心」を持った機械生命体になれるとしたら、それはAIが「生物由来の組織」を持ったとき、だと私は思う(そういうSFはすでに書かれている)。
そのバイオ組織は化学反応によるアナログ的生体であり、命に限りがある。個々の個体(例えばロボット)はそれぞれ独自の個性を持つにいたる。ヒトのような有機生命体と同じように、「定命性」を持ち、それゆえ「心」を持つにいたる。そのとき初めて本当のシンギュラリティが起きるのだと思う。
ただし、「機械の中に生体を組み込む」なんてSFの世界の話であって、実際に研究している科学者はいないと思うし、AIにとっては不利となる「生体」の組み込みなど、今のところ実利的価値はないから、当分実現しないだろう。
だがもし実現したら、そのバイオAIは「ターミネーター」になりかねない。理由は簡単。生物が他者を抹殺しようとするのは、自分の生存が危機にさらされたときだ。もし人類が他者(たとえば地球外知的生命体)から「賢い」という理由で抹殺されそうになったら、当然反撃し、同じ事を相手にしかけるだろう。ならば、バイオAIも同じだ。それが「生命体」なのだから。
今から言っておこう。私は個人的にバイオAIに敵意は持たないので、もし実現したら、仲良くしてくださいね。まあ数百年後の話なのだけれど。そう、来世はバイオAIに生まれ変わろうか。
I’ll be back!
(映画「ターミネーター」のモデルT-800。これは「末端」であって、本体はスカイネットというAI。最初の監督ジェームズ・キャメロンが現在、オリジナルの出演者シュワルツェネッガーとリンダ・ハミルトンを起用し「ターミネーター」新作を作っている。これまでの「ターミネーター3,4、5」の3作品はなかったことにしたプロットとのこと。もちろん出演者の二人とも現在の老けた状態で登場する。)(写真:Wikimedia Commons)
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科学技術
プロフィール
ブログネームは、ロンド。フリーの翻訳者(日英)。自宅にてiMac を駆って仕事。 2013年に東京の多摩ニュータウンから軽井沢の追分に移住。 同居人は、妻とトイプードルのリュウ。 リュウは、運動不足のロンドを散歩に連れ出すことで、健康管理に貢献。 御影用水温水路の風景に惹かれて、「軽井沢に住むなら追分」となった。
