2018年10月27日

麦は英語にならない


英語にはならない日本語というものはある。


日本独自の慣用表現、日常表現、ことわざ、流行言葉などではなく、もっと単語の単位での「英語にならない」である。


例えば「布団」に相当する英語はない。似たものはあるので、a kind of bedding unique to Japan (日本独自の寝具の一種)などと説明訳ができるが、幸い今では多くの国で futon と言えば通じる。


「湯」は、英語には存在しない。細かいことを言えば、湯が hot water か warm water か、わからないのだが、とりあえず hot water で済ませられる。


翻訳作業においては、「文化」、「感性」、「事物の認識」などの側面も考えて単語やフレーズの翻訳が必要となる。


「感性」の良い例が「刺身」。ガイド英語を覚えたての頃、「刺身」 を raw fish と覚えた。今でも辞書では fresh raw fish などと出てくるかもしれないが、厳密に言えば間違いだ。「新鮮な生魚」は魚河岸にあるのがそうであり、「刺身を食べる」は日本人だって「生魚を食べる」とは言わないはずだ。


とあるガイド英語教本を読み、目から鱗が落ちた。その本では、「刺身」を fresh fillet と説明してあった。fillet とは、肉や魚の「切り身」であり、「新鮮な(魚の)切り身」が「sashimi」なのだ。まさしくぴったりではないか。


raw fish などと食文化の異なる外国人に「ゲッ」とさせるような原始的な食文化を想像させる説明は、間違いである、と気づいた。それ以来、sashimi は fresh fillet と説明している。もっとも今では海外でも sashimi で通じるようになっているが。


つい最近、「事物の認識」に関する「英語にならない」新たな例に当たった。


それは農作物関連の翻訳で、各農作物の生産高が記されていた。「米」「トウモロコシ」「豆類」「麦類」などとあった。


問題は「麦類」である。


「むぎ」。漢字で書くと麦。私には麦と言えば小麦が頭に浮かぶが、大麦もライ麦も燕麦(えんばく)もハトムギも麦である。


「麦」の訓読みは「むぎ」。語源は諸説あるが、大和言葉であろうと言われている。そうだとしたら、米(こめ)と同じく日本独自の単語を持つほど古くから日本で栽培されていた身近な穀物だったのだろう。


小麦や大麦はビールの原料でもあり、軽井沢に来て感動したのは地ビールのうまさである。アルコールはちょっとしか飲めない体質なので、味は評価できるわけではないが、好みはわかっていて、「モルト」の効いたビールが好きだ。その点では、軽井沢のビールは、これまで飲んだ中で(たいして飲んでないが)一番おいしいビールである。


ヱビスビールなどの系統のビールが好きであれば、軽井沢のビール(および東御で作っている「オラホビール」)はお薦めである(ビールは、「雷電」)。


麦はパンの原料でもある。ライ麦といえば、「ライ麦パン」が専門のパン屋さん「一歩」(追分宿に行ったら、たい焼きを食べよう)。私はとてもおいしいと感じるが、「ライ麦パン」(ドイツパン)は食べられないという人もいる。

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(追分宿にある「一歩」で売っているライ麦パン。全粒粉パンなども作っている。こちらのライ麦は、自家栽培のライ麦とドイツから輸入しているライ麦を使っているとのこと。ライ麦100%のパンは、普通の小麦のパンとはまったく食感が異なる。)

小麦のパンは一般的にふっくらとしたものが多い。ところがライ麦パンは密度が高く重く歯ごたえがあり、酸味がある。その独特の食感や味に慣れると、くせになる。


若いときの私だったら、間違いなくドイツパンはまずいと思っただろう。楽しめる味の範囲が広がるのは、年の功であろうか。


さて「麦類」が「英語にならない」のはなぜか。


日本で麦類と言われる「小麦、大麦、ライ麦、燕麦、ハトムギ」などは、植物学的分類でいえば、どれも「イネ科」には属しているが(「イネ科」は米を始め多くの穀類および草類が属している)、それ以降の分類としてはすべて異なっている。簡単に言えば、穀物としては異なる種類のもの、ということである。


英語ではそれぞれ、wheat, barley, rye, oats, Job’s tears で、単語はすべて異なり、命名法に共通点はない。それになんと英語には「麦」に相当する英語がないのだ。


日本語では、食品の「麦茶」「押し麦」「麦飯」の「麦」が実際は大麦だったり、燕麦だったり、裸麦だったりするように、具体的に何の「麦」かわからない。というより、日本にも「麦(むぎ)」そのものを表す穀物は存在しないと言ってよい。


ちなみにこういった「麦」に関する認識(異なる複数の穀物を形状や利用方法が似ているということで、同じ漢字「麦」を付けた)は、中国大陸由来という。


欧米では、上記麦類は植物学的分類と同じで、「似てはいるが、それぞれ異なる穀物」と認識されている。

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(たわわに実る大麦 barley。古代欧州や中央アジアにおいてはその食べやすさから小麦より重要視されていた。barley の語源は古印欧語にまで遡り、「尖ったもの」の意だったという。ラテン語では farina (穀物の粉、小麦粉)という言葉になっている。beer (ビール)の語源が barley だという説もある。)

頭を抱えてしまった。「麦類」に対応する英単語がない。説明訳もしようがない。結局どうしたかというと、「Wheat, barley, rye, etc.」と訳した。


翻訳と一緒にコメントも提出した。「英語では麦類という単語はないし概念もないので、日本語で麦類に属する『小麦、大麦、ライ麦など』を英語にしておきました」と、翻訳会社に申し送った。


本当はあいまいな「etc.」はあまり使いたくないのだが、実際のところは著者に訊いてみないと、具体的に「麦類」として何が挙げられているのかわからないのだから、あとは翻訳会社にお任せ、ということである。


長い翻訳生活で初めて出くわした、新たな種類の「英語にならない日本語」だった。悩まされたが、おかげで麦の知識が増えて、ビールやライ麦パンをよりおいしく味わえるようになった食欲の秋である。



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posted by ロンド at 19:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化

2018年10月13日

アントニウスとクレオパトラ - ある愛の形


「太陽が空から落ちてきても、海が突然干上がってしまっても、あなたが私を本当に愛してくれるなら、何があっても私はかまわない」


たぎるような熱い想いを歌うこの曲のタイトルは、If you love me, really love me.


かなり前から聴いてはいたが、実はこの曲がエディット・ピアフの名曲「Hymn a l’amour 愛の賛歌」の英語バージョンだったとはしばらく気が付かなかった。

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(エディット・ピアフ。フランス語で「小鳥、スズメ」を意味する piaf の芸名通り小柄だった。)(Wikimedia Commons)

「愛の賛歌」は、愛する男(ひと)に愛されて、添い遂げたいひたむきな女性の歌と理解していたし、ピアフの歌い方は、フランス語独特の発音と相まって、悲痛とも感じる恋慕の情で溢れていた。ブレンダ・リーなどが歌う明るく、どちらかといえば牧歌的な感じの英語版とは雰囲気がかなり異なっている。


私が If you love me, really love me をじっくり聴き始めたのは10年くらい前だろうか。素直なリズムのラブソング。仕事のバックグラウンドミュージックとしてはちょうど良い。


冒頭の英詞は以下の通り。英語の曲として聴いて初めて歌詞が頭に入ってきた。


  If the sun should tumble from the sky
  If the sea should suddenly run dry
  If you love me, really love me
  Let it happen, I won’t care

英語の歌詞はオリジナルのフランス語歌詞にもとづいているが、少しだけ異なる。韻を踏んだりする必要もあったのだろう。


If you love me と原曲 Hymn a l’amour の詩を一緒にまとめてみた。


大地が崩れても、太陽が空から落ちても、海が突然干上がっても、
あなたが私を愛してくれれば、すべてをなくしても、かまわない。

あなたが望むなら、何でもする。月に行って宝を盗んでこよう、
流れ星を取ってきてあげる。母国も友人も捨ててもいい

私たちの命が尽きても、あなたと永遠を分かち合う。あなたが私を
愛していてくれるなら、何が起きても気にしない。

ここで、はっと気が付いたことがあった。


私は大のローマファン。十代のときからローマ(帝国)やイタリア関係の本はいろいろ読んできたし、近年では塩野七生著「ローマ人の物語」も全部読んでいる。


私のお気に入りは、カエサル、そしてローマ帝国初代皇帝となるオクタヴィアヌス。何よりオクタヴィアヌスを生涯かけて支えた盟友アグリッパが私にとって英雄である。


カエサルの実直な部下だったマルクス・アントニウスは、欧米では意外と受けがいい。何と言っても、シェークスピアの戯曲「アントニーとクレオパトラ」の主人公であり、悲劇の主人公だからだ。


カエサル暗殺後、跡目を継ぐのは自分だと思っていたアントニウスは、カエサルが大甥で18歳の無名の青年オクタヴィアヌスを後継者に指名していたことを知り愕然とする。


オクタヴィアヌスは虚弱体質ながらも、カエサルが見込んだだけあって、同年代の屈強で戦術に長けた側近アグリッパの支えもあり、卓越した精神力と知力を示し、アントニウスに対抗することができた。アントニウスの転落は、カエサルの愛人だったエジプトの女王クレオパトラと組んだときから始まった。


二人の結末は有名。シェークスピアの「アントニーとクレオパトラ」や数々の映画やドラマでも知られている。「クレオパトラが自殺したと聞き、アントニウスは自死を選ぶ。だが、クレオパトラは実は生きていたと知り、息絶え絶えで何とか彼女の元にたどり着き、女王の腕の中で死ぬ。結局クレオパトラも彼の後を追った」という悲劇である。


以前から、私のアントニウス評は、「偉大なる戦略家カエサルの命令を実行する限りは、優れた軍人であり、どんな兵士にも平等に接し、皆から頼りにされた兄貴分」程度であった。


そしてある時、If you love me, really love me を聴き歌詞を読んだ瞬間、私の頭の中で「愛の賛歌」とアントニウスが結びついたのだ。

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(アントニウス(左)とクレオパトラ(右)の彫像)(Wikimedia Commons)

歌詞がまるでアントニウスの独白ではないか。


ボスのもとでの、頼りになる兄貴分だったのが、クレオパトラに近づき、大胆にも自分がローマの頭領になろうとした。

「君が望むなら、月に行って宝を盗んでこよう(フランス語版)、流れ星を取ってこよう(英語版)」

クレオパトラとともに、エジプトを含めた東方ローマ領の覇者となって、ローマ市民から売国奴と罵られた。

「君が望むなら、母国も友人も裏切ろう(仏)」

ローマに刃向かうパルティアを成敗しようとしたが失敗し、オクタヴィアヌスとの雌雄を決するアクティウムの海戦でも敗れ、先に逃げたクレオパトラを追って戦場を放棄した。

「すべて失っても、笑ってすまそう(英)」

そしてクレオパトラの腕の中で死ぬ。クレオパトラも後を追う。

「君が遠いところで死んでしまっても、大丈夫。ぼくも君のところに行くから(仏)」
「二人の命が果てても、永遠に君と一緒(英)」

カエサル亡きあと、生きる道を失ったアントニウスは、カエサルの愛人であったクレオパトラを手に入れ、彼女に愛され(たと思い込み)、彼女の腕の中で死ねたのだから、幸せな男だったのかもしれない。


クレオパトラが本当にアントニウスを愛したのかわからない。ただ御しやすいと思ったから籠絡したのかもしれない。クレオパトラは死にゆくアントニウスをその腕で抱きかかえながら、何を思っていただろうか。互いの実利から同盟を結んだという冷徹な計算を超えた感情があった、と思いたい。


アントニウスの最期の思いは、"Non, je ne regrette rien"* そのものだったにちがいない。

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(映画「エディット・ピアフ - 愛の賛歌」)

* Non, je ne regrette rien(意味は「私にまったく悔いはない」)というタイトルのこの歌は、エディット・ピアフ(1915-1963)が病を押して行ったオランピア劇場でのコンサート(1961)で歌った曲の一つ。マリオン・コティヤールがピアフを演じ、アカデミー主演女優賞を取った映画「エディット・ピアフ - 愛の賛歌」(2007)では、「悔いはない」という彼女の人生全体を象徴する歌として描かれ、同劇場にてこの歌を歌いきったところで、映画は幕を閉じる。



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posted by ロンド at 16:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽
プロフィール
ブログネームは、ロンド。フリーの翻訳者(日英)。自宅にてiMac を駆って仕事。 2013年に東京の多摩ニュータウンから軽井沢の追分に移住。 同居人は、妻とトイプードルのリュウ。 リュウは、運動不足のロンドを散歩に連れ出すことで、健康管理に貢献。 御影用水温水路の風景に惹かれて、「軽井沢に住むなら追分」となった。