英語にはならない日本語というものはある。
日本独自の慣用表現、日常表現、ことわざ、流行言葉などではなく、もっと単語の単位での「英語にならない」である。
例えば「布団」に相当する英語はない。似たものはあるので、a kind of bedding unique to Japan (日本独自の寝具の一種)などと説明訳ができるが、幸い今では多くの国で futon と言えば通じる。
「湯」は、英語には存在しない。細かいことを言えば、湯が hot water か warm water か、わからないのだが、とりあえず hot water で済ませられる。
翻訳作業においては、「文化」、「感性」、「事物の認識」などの側面も考えて単語やフレーズの翻訳が必要となる。
「感性」の良い例が「刺身」。ガイド英語を覚えたての頃、「刺身」 を raw fish と覚えた。今でも辞書では fresh raw fish などと出てくるかもしれないが、厳密に言えば間違いだ。「新鮮な生魚」は魚河岸にあるのがそうであり、「刺身を食べる」は日本人だって「生魚を食べる」とは言わないはずだ。
とあるガイド英語教本を読み、目から鱗が落ちた。その本では、「刺身」を fresh fillet と説明してあった。fillet とは、肉や魚の「切り身」であり、「新鮮な(魚の)切り身」が「sashimi」なのだ。まさしくぴったりではないか。
raw fish などと食文化の異なる外国人に「ゲッ」とさせるような原始的な食文化を想像させる説明は、間違いである、と気づいた。それ以来、sashimi は fresh fillet と説明している。もっとも今では海外でも sashimi で通じるようになっているが。
つい最近、「事物の認識」に関する「英語にならない」新たな例に当たった。
それは農作物関連の翻訳で、各農作物の生産高が記されていた。「米」「トウモロコシ」「豆類」「麦類」などとあった。
問題は「麦類」である。
「むぎ」。漢字で書くと麦。私には麦と言えば小麦が頭に浮かぶが、大麦もライ麦も燕麦(えんばく)もハトムギも麦である。
「麦」の訓読みは「むぎ」。語源は諸説あるが、大和言葉であろうと言われている。そうだとしたら、米(こめ)と同じく日本独自の単語を持つほど古くから日本で栽培されていた身近な穀物だったのだろう。
小麦や大麦はビールの原料でもあり、軽井沢に来て感動したのは地ビールのうまさである。アルコールはちょっとしか飲めない体質なので、味は評価できるわけではないが、好みはわかっていて、「モルト」の効いたビールが好きだ。その点では、軽井沢のビールは、これまで飲んだ中で(たいして飲んでないが)一番おいしいビールである。
ヱビスビールなどの系統のビールが好きであれば、軽井沢のビール(および東御で作っている「オラホビール」)はお薦めである(ビールは、「雷電」)。
麦はパンの原料でもある。ライ麦といえば、「ライ麦パン」が専門のパン屋さん「一歩」(追分宿に行ったら、たい焼きを食べよう)。私はとてもおいしいと感じるが、「ライ麦パン」(ドイツパン)は食べられないという人もいる。

(追分宿にある「一歩」で売っているライ麦パン。全粒粉パンなども作っている。こちらのライ麦は、自家栽培のライ麦とドイツから輸入しているライ麦を使っているとのこと。ライ麦100%のパンは、普通の小麦のパンとはまったく食感が異なる。)
小麦のパンは一般的にふっくらとしたものが多い。ところがライ麦パンは密度が高く重く歯ごたえがあり、酸味がある。その独特の食感や味に慣れると、くせになる。
若いときの私だったら、間違いなくドイツパンはまずいと思っただろう。楽しめる味の範囲が広がるのは、年の功であろうか。
さて「麦類」が「英語にならない」のはなぜか。
日本で麦類と言われる「小麦、大麦、ライ麦、燕麦、ハトムギ」などは、植物学的分類でいえば、どれも「イネ科」には属しているが(「イネ科」は米を始め多くの穀類および草類が属している)、それ以降の分類としてはすべて異なっている。簡単に言えば、穀物としては異なる種類のもの、ということである。
英語ではそれぞれ、wheat, barley, rye, oats, Job’s tears で、単語はすべて異なり、命名法に共通点はない。それになんと英語には「麦」に相当する英語がないのだ。
日本語では、食品の「麦茶」「押し麦」「麦飯」の「麦」が実際は大麦だったり、燕麦だったり、裸麦だったりするように、具体的に何の「麦」かわからない。というより、日本にも「麦(むぎ)」そのものを表す穀物は存在しないと言ってよい。
ちなみにこういった「麦」に関する認識(異なる複数の穀物を形状や利用方法が似ているということで、同じ漢字「麦」を付けた)は、中国大陸由来という。
欧米では、上記麦類は植物学的分類と同じで、「似てはいるが、それぞれ異なる穀物」と認識されている。

(たわわに実る大麦 barley。古代欧州や中央アジアにおいてはその食べやすさから小麦より重要視されていた。barley の語源は古印欧語にまで遡り、「尖ったもの」の意だったという。ラテン語では farina (穀物の粉、小麦粉)という言葉になっている。beer (ビール)の語源が barley だという説もある。)
頭を抱えてしまった。「麦類」に対応する英単語がない。説明訳もしようがない。結局どうしたかというと、「Wheat, barley, rye, etc.」と訳した。
翻訳と一緒にコメントも提出した。「英語では麦類という単語はないし概念もないので、日本語で麦類に属する『小麦、大麦、ライ麦など』を英語にしておきました」と、翻訳会社に申し送った。
本当はあいまいな「etc.」はあまり使いたくないのだが、実際のところは著者に訊いてみないと、具体的に「麦類」として何が挙げられているのかわからないのだから、あとは翻訳会社にお任せ、ということである。
長い翻訳生活で初めて出くわした、新たな種類の「英語にならない日本語」だった。悩まされたが、おかげで麦の知識が増えて、ビールやライ麦パンをよりおいしく味わえるようになった食欲の秋である。
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