「オペラは太った淑女が歌うまで終わらない」という英語の表現がある。初めて知ったとき、こんな言い回しは「politically incorrect(不適切、偏見がある)」ではないか、と思ったものだが、何十年も使われ続けていて、どこからも文句がでないところをみると、親しみのある表現なのだろう。
確かに、オペラ歌手は男女とも恰幅の良い人は多い。音声的(肉体的)には、太っている方がどちらかといえば力強く質の良い声が出るのは間違いないようだが、必ずしも太っていなければならない、ということではないらしい。
英語では、The opera is never over till the fat lady sings. しかしもっと頻繁に使われるのは、It ain't over till the fat lady sings. という形で、ain't は非常に口語的な is not (am not, are not)の短縮形。主語の It は、試合やゲームなど、何でも良い。「終わりが近づき、勝敗がつきそうになっている」時に「いやまだまだ、どっちに転ぶかわからないよ。早合点しないように」という意味で使われる。
この表現でいう fat lady というのは、もちろんオペラ歌手のことで、原典を辿ると、ドイツ人オペラ作家リヒャルト・ヴァーグナー(日本では主にワーグナーと呼ばれている)の「ニーベルンゲンの指環」三部作の最後「神々の黄昏」に登場する、英雄ジークグリートの死を悼むヴァルキューレ(北欧神話の最高神オーディンに使える女神)、ブリュンヒルデのことという。
「神々の黄昏」では、ブリュンヒルデが20分も歌いフィナーレを迎える構成になっている。つまり、ブリュンヒルデが歌わないと、このオペラは終わらない、ということ。ヴァーグナーはブリュンヒルデ役に太った歌手を起用していたという。
そこからこの口語表現ができた、ということらしいが、本当はもっと複雑なようで、とても紹介しきれないので、ここでは省かせていただく。

(この表現は映画でもよく使われている。ディズニー実写映画「美女と野獣」(2017)では、最後の大乱闘で、洋服ダンスに変身させられていた Madame Garderobe「ガルドローブ夫人」が、The fat lady is singing!(吹き替えでは「太めの歌姫が歌うまでオペラは終わらないの」)と叫びながら、その巨体で侵入者に襲いかかる。)(写真:Wikimedia Commons)
さて、太ったオペラ歌手の生声の音量はすごいが、私は実際にオペラ歌手が発声するところをステージの上で聞いたことがある。その人は日本人の男性オペラ歌手で、恰幅はよかったが太ってはいなかった。
場所は、東京初台にある東京オペラシティのコンサートホール(初代音楽監督の作曲家武満徹氏にちなみ「タケミツメモリアル」と呼ばれている)。ピラミッド型の天井が特徴的なホールである。
建築の翻訳が専門だった私は、「音響建築」の仕事に関わる機会があった。コンサートホールとオペラハウスを一体的に開発する東京オペラシティ(TOC)プロジェクトである。コンサートホールは高層棟の中、オペラハウスはそれに隣接する新国立劇場の中にある。私はこの2つのホールの音響設計関連翻訳・通訳業務を行った。建設途中から完成後まで10年以上にわたり携わった(全体竣工は1999年)。
2ホールとも、完成した後、何度もオペラ歌手や演奏者に実演してもらい、音響測定を行った。
その日、私はTOCの音響コンサルタントとして来日していたアメリカ人音響学者ベラネク博士とともに、タケミツメモリアルのステージに立っていた。隣には実演を依頼された男性オペラ歌手がいた。彼はおもむろに「あーおー」と声を出した。
その時のことはよく覚えている。それは「感動」なんていうものではなく「衝撃」であった。
このコンサートホールは座席数が1600以上ある。ステージの上に立つと、その広さがよくわかる。広いホールにその生声は浪々と轟き渡った。
そばにいてあれほど「人の力」に驚いたことはなかった。「オペラ歌手の声量はすごい」ことをオペラ観劇で知ってはいたが、その認識をはるかに超える「人間の声の力」だった。これがオペラ歌手か。
その瞬間、オペラというものの「物理的側面」に心を奪われた。
そもそも西洋において音楽は「数学」の一部だった。古代ギリシャから数論と密接に関連し、その理論の上に作られていた、という。
その理由はよくわかる。声や音の数学的側面はもとより、良いホールを設計するには、「音響測定」が必定。ホール内部の形状、壁の材質、座席の材質、壁の形状・装飾などなど、「見た目の芸術性」以前に「数学的(物理的)条件」を満たさなければ、良い音にはならないのだ。
TOCプロジェクトでは、タケミツメモリアルとオペラハウスに対し、天井材、壁材、椅子材、椅子張り材、床材、あらゆる材料を検討し、あらゆる形状を検討し、形ができあがると何度も音響測定をし、何度もチューニングコンサートを行った。私もベラネク博士の通訳者として、設計者や施工者や指揮者や音楽家など多くの人との意見交換、打合せ、議論に臨席し、間近で歌手や奏者のパフォーマンスも見た。音響設計担当の竹中工務店技術研究所音響チームが書くTOC関連論文の日英翻訳も手伝った。そしてホールの設計は「人の感覚すべてを高める空間」作りだということを知った。

(マエストロ小澤征爾指揮によるタケミツメモリアルでのチューニングコンサートのリハーサル風景。完成後のホールがどんな音響特性を持つか測定し、設計通りできているか検証するための演奏。座席にシートがかぶせてあるのは、人の着席をシミュレーションしている。人の数で音響も変わる。)(写真提供:日高孝之氏)
この仕事以来オペラが好きになった。オペラの「音楽性」「芸術性」「感性」よりは「物理」や「数学」に惹かれた。人間を通した結果の物理・数学、いや人間力に姿を変えた物理・数学と言えようか。
カリスマ的カストラートオペラ歌手ファリネッリのそばにいて、その歌を聴いたら、どんなだったであろうか。まさかその「物理力」で失神したりはしないだろうか。
この先私は、オペラの「芸術性」をより深く理解できるようになるか、「物理」が前面に立ち続けるのか。それは太った淑女が歌うまでわからない。
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(東京オペラシティの高層棟。この低層階にコンサートホール「タケミツメモリアル」がある。) | (高層棟に隣接している「新国立劇場」。この低層棟のなかに「オペラハウス」が入っている。現在は愛称として「オペラパレス」と呼ばれている。) |
(東京オペラシティのコンサートホールとオペラハウスは、音響設計における世界的権威であったベラネク博士(1914-2016)の膨大な知識と理論、および世界トップクラスの音響測定技術を持つ竹中工務店技術研究所の共同作業により、世界最高レベルの「良い音が聞こえるホール」となっている。)(写真:Wikimedia Commons)
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