2018年11月24日

オペラは太った淑女が歌うまで終わらない



「オペラは太った淑女が歌うまで終わらない」という英語の表現がある。初めて知ったとき、こんな言い回しは「politically incorrect(不適切、偏見がある)」ではないか、と思ったものだが、何十年も使われ続けていて、どこからも文句がでないところをみると、親しみのある表現なのだろう。


確かに、オペラ歌手は男女とも恰幅の良い人は多い。音声的(肉体的)には、太っている方がどちらかといえば力強く質の良い声が出るのは間違いないようだが、必ずしも太っていなければならない、ということではないらしい。


英語では、The opera is never over till the fat lady sings. しかしもっと頻繁に使われるのは、It ain't over till the fat lady sings. という形で、ain't は非常に口語的な is not (am not, are not)の短縮形。主語の It は、試合やゲームなど、何でも良い。「終わりが近づき、勝敗がつきそうになっている」時に「いやまだまだ、どっちに転ぶかわからないよ。早合点しないように」という意味で使われる。


この表現でいう fat lady というのは、もちろんオペラ歌手のことで、原典を辿ると、ドイツ人オペラ作家リヒャルト・ヴァーグナー(日本では主にワーグナーと呼ばれている)の「ニーベルンゲンの指環」三部作の最後「神々の黄昏」に登場する、英雄ジークグリートの死を悼むヴァルキューレ(北欧神話の最高神オーディンに使える女神)、ブリュンヒルデのことという。


「神々の黄昏」では、ブリュンヒルデが20分も歌いフィナーレを迎える構成になっている。つまり、ブリュンヒルデが歌わないと、このオペラは終わらない、ということ。ヴァーグナーはブリュンヒルデ役に太った歌手を起用していたという。


そこからこの口語表現ができた、ということらしいが、本当はもっと複雑なようで、とても紹介しきれないので、ここでは省かせていただく。

Beauty_and_the_Beast_2017_poster.jpg
(この表現は映画でもよく使われている。ディズニー実写映画「美女と野獣」(2017)では、最後の大乱闘で、洋服ダンスに変身させられていた Madame Garderobe「ガルドローブ夫人」が、The fat lady is singing!(吹き替えでは「太めの歌姫が歌うまでオペラは終わらないの」)と叫びながら、その巨体で侵入者に襲いかかる。)(写真:Wikimedia Commons)


さて、太ったオペラ歌手の生声の音量はすごいが、私は実際にオペラ歌手が発声するところをステージの上で聞いたことがある。その人は日本人の男性オペラ歌手で、恰幅はよかったが太ってはいなかった。


場所は、東京初台にある東京オペラシティのコンサートホール(初代音楽監督の作曲家武満徹氏にちなみ「タケミツメモリアル」と呼ばれている)。ピラミッド型の天井が特徴的なホールである。


建築の翻訳が専門だった私は、「音響建築」の仕事に関わる機会があった。コンサートホールとオペラハウスを一体的に開発する東京オペラシティ(TOC)プロジェクトである。コンサートホールは高層棟の中、オペラハウスはそれに隣接する新国立劇場の中にある。私はこの2つのホールの音響設計関連翻訳・通訳業務を行った。建設途中から完成後まで10年以上にわたり携わった(全体竣工は1999年)。


2ホールとも、完成した後、何度もオペラ歌手や演奏者に実演してもらい、音響測定を行った。


その日、私はTOCの音響コンサルタントとして来日していたアメリカ人音響学者ベラネク博士とともに、タケミツメモリアルのステージに立っていた。隣には実演を依頼された男性オペラ歌手がいた。彼はおもむろに「あーおー」と声を出した。


その時のことはよく覚えている。それは「感動」なんていうものではなく「衝撃」であった。


このコンサートホールは座席数が1600以上ある。ステージの上に立つと、その広さがよくわかる。広いホールにその生声は浪々と轟き渡った。


そばにいてあれほど「人の力」に驚いたことはなかった。「オペラ歌手の声量はすごい」ことをオペラ観劇で知ってはいたが、その認識をはるかに超える「人間の声の力」だった。これがオペラ歌手か。


その瞬間、オペラというものの「物理的側面」に心を奪われた。


そもそも西洋において音楽は「数学」の一部だった。古代ギリシャから数論と密接に関連し、その理論の上に作られていた、という。


その理由はよくわかる。声や音の数学的側面はもとより、良いホールを設計するには、「音響測定」が必定。ホール内部の形状、壁の材質、座席の材質、壁の形状・装飾などなど、「見た目の芸術性」以前に「数学的(物理的)条件」を満たさなければ、良い音にはならないのだ。


TOCプロジェクトでは、タケミツメモリアルとオペラハウスに対し、天井材、壁材、椅子材、椅子張り材、床材、あらゆる材料を検討し、あらゆる形状を検討し、形ができあがると何度も音響測定をし、何度もチューニングコンサートを行った。私もベラネク博士の通訳者として、設計者や施工者や指揮者や音楽家など多くの人との意見交換、打合せ、議論に臨席し、間近で歌手や奏者のパフォーマンスも見た。音響設計担当の竹中工務店技術研究所音響チームが書くTOC関連論文の日英翻訳も手伝った。そしてホールの設計は「人の感覚すべてを高める空間」作りだということを知った。

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(マエストロ小澤征爾指揮によるタケミツメモリアルでのチューニングコンサートのリハーサル風景。完成後のホールがどんな音響特性を持つか測定し、設計通りできているか検証するための演奏。座席にシートがかぶせてあるのは、人の着席をシミュレーションしている。人の数で音響も変わる。)(写真提供:日高孝之氏)


この仕事以来オペラが好きになった。オペラの「音楽性」「芸術性」「感性」よりは「物理」や「数学」に惹かれた。人間を通した結果の物理・数学、いや人間力に姿を変えた物理・数学と言えようか。


カリスマ的カストラートオペラ歌手ファリネッリのそばにいて、その歌を聴いたら、どんなだったであろうか。まさかその「物理力」で失神したりはしないだろうか。


この先私は、オペラの「芸術性」をより深く理解できるようになるか、「物理」が前面に立ち続けるのか。それは太った淑女が歌うまでわからない。

Tokyo_Opera_City_Tower.jpg
 


      New_National_Theatre,_Tokyo_2010.jpg

(東京オペラシティの高層棟。この低層階にコンサートホール「タケミツメモリアル」がある。)

 

(高層棟に隣接している「新国立劇場」。この低層棟のなかに「オペラハウス」が入っている。現在は愛称として「オペラパレス」と呼ばれている。)


(東京オペラシティのコンサートホールとオペラハウスは、音響設計における世界的権威であったベラネク博士(1914-2016)の膨大な知識と理論、および世界トップクラスの音響測定技術を持つ竹中工務店技術研究所の共同作業により、世界最高レベルの「良い音が聞こえるホール」となっている。)(写真:Wikimedia Commons)



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posted by ロンド at 16:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 音楽

2018年11月09日

列車の遠鳴りが聞こえるところ


庭にいるとき、列車の走る音がふんわりと聞こえてくることがある。


しなの鉄道は私が住む追分の東から南に向かって走っているのは知っていたが、1キロ近く離れているし、しかも線路は堀割を走っている。だから、その音が我が家まで届くとは思わなかった。

Train in the trench.jpg
(三両編成のしなの鉄道。撮影場所は、御代田と信濃追分の間)

たまたま列車が通っているとき東風か南風が吹いて、たまたま私が庭にいるときに聞こえる音だ。


木霊するようなガターンゴトーンという列車の遠鳴りは、不思議に気持ちが和む。


オーケストラの演奏でも、劇場内の「遠鳴り」は特別な音響効果があるという。間近で楽器が奏でられていると、音量は大きく音のぎらつきが体に響く。だが、遠くまで届く音、遠鳴り、は、様々な音がバランス良く混じり、適度な音量や音質となって、耳当たりよく響く。


遠くまで届かせるには、大きな音を出せば良い、というものではない。だから遠鳴りする音を出すには、かなり高度な演奏技術が求められるという。


列車の遠鳴りも、線路と車輪の金属音など耳にきつい音素が様々な音と組み合わさって、心地よく響く音に変わるのだろう。


列車の遠鳴りで心地よさ以上に感じるのものがある。それは、なつかしさである。


そういえば、生まれ故郷の甲府でも、列車の遠鳴りをずっと聞いて育った。当時住んでいた家から、南の方向に中央本線が通っていた。


実際は線路から我が家まで800メートルくらいしか離れていないが、そのころはもっと遠いと思っていた。


生まれ育った街は、道は広く、建物は高く、線路は遠かった。自分が小さかったから、回りの世界が大きく見えていたのだ。


列車の遠鳴りはそのころのイメージと重なり、郷愁を感じさせるのだろう。


テレビでは「鉄道の利用」を勧める鉄道会社のコマーシャルが流れ、鉄道をテーマとした刑事ドラマや、芸能人が日本各地を旅する番組などもある。特にコマーシャルは、魅力的な観光都市、地方都市、自然の風景が映され、耳に残る音楽が流され、いかにも「鉄道でどこかに行けば、良いことがある」と思わせるよう作られている。


それらは「鉄道の音=ノスタルジー」の連想を一般大衆に刷り込むには大いに効果があったことだろう。列車といえば通勤電車、という都会っ子でさえも、列車の遠鳴りを聞くと郷愁を感じるのではないだろうか。私もそう刷り込まされた一人かもしれない。


ただ私の場合、ノスタルジー以上に感じるのは「異界感」である。列車の遠鳴りを聞くと、とたんにイメージは夕暮れになり、どこか知らない世界への門が開くかのような雰囲気が自分の中に生まれるのだ。


私が幼いとき、遠くに行くには電車しかなかった。もちろん自動車はあったが、当時はまだ自家用車を持っている家庭は少なく、我が家も家族旅行は、いつも電車だった。


しかし 楽しかったはずの家族旅行なのに、なぜかどこに行ったのかほとんど覚えていない。


旅行の記憶は不鮮明だが、「どこか知らない場所」の夢はよく見た。今でも時々見る。自分の知っている、または見たことのある街に似てはいるが、実在してはいない街。しかし非常に鮮明な映像の夢。


ひょっとして、家族旅行で行ったのはどこか別の世界であって、戻ってきたときには記憶が消されてしまう仕組みになっている、異界旅行だったのかもしれない、などと夢想してしまったりする(spirited away = 神隠しに遭う。「千と千尋の神隠し」の英語タイトル)。


たぶん、幼い頃は世界が狭く、その世界の外に行く手段は鉄道だったから、列車の遠鳴りを聞くと、そういう異世界に行く、という感覚が生じるようになったのであろう。


ところが軽井沢に移り住んで、つい最近、列車の遠鳴りは聞かなくても、同じような「異界感」を感じたことがあった。


それは、軽井沢千住博美術館(http://www.senju-museum.jp)に行ったときだった。


幻想的な作品が多い絵画の中で、とりわけ私の足を止めたのが「月映」。中央に多くの線路が通っていて、向かう先はいくつものプラットホームがある駅。左右にはビルが立ち並んでいる。駅も建物も地平線まで続き、空には月が浮かび、月光で風景が夕暮れ時のように見える。


この作品が描く世界は、知っているようで知らない世界。そこは鉄道が象徴的な位置を占めている。


列車の遠鳴りを聞く度に感じていた異界感が、目に見えるものとして現れたのが、千住博の「月映」だった。

Reflected moon 2.jpg
(千住博の「月映」。撮影が許可されている期間に、千住博美術館にて撮影)

千住博画伯といえば、代表的なモチーフである「滝」。その発展形という「地の果て」。見ていて冷たさを感じるという人もいるが、不思議に引き込まれてしまう世界観がある。


それらの淡色系作品に比べると、「月映」は温かみがあると言えるが、「別世界」の感覚は強かった。


リゾートであり観光地であり、文壇や画壇を惹きつけてやまない軽井沢そのものが、異界なのかもしれない。



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posted by ロンド at 16:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 軽井沢
プロフィール
ブログネームは、ロンド。フリーの翻訳者(日英)。自宅にてiMac を駆って仕事。 2013年に東京の多摩ニュータウンから軽井沢の追分に移住。 同居人は、妻とトイプードルのリュウ。 リュウは、運動不足のロンドを散歩に連れ出すことで、健康管理に貢献。 御影用水温水路の風景に惹かれて、「軽井沢に住むなら追分」となった。