2019年06月22日

個性なんて


「個性」は必要だろうか。「個性のある○○」とか「個性豊かな○○」というようなものは、やはり持つべきだろうか。

現実的には、遺伝子や容姿や行動や思想など各個人すべて異なり、それぞれ個性はある。だが、世間で言われている「個性」とは、そういう個性ではないはず。もっとユニークな、人とは違う大きな特徴のようなものを意味しているはずだ。

ひところ「個性が大切」という風潮があり、行政も盛んに「個性のある○○」を強調していた。音楽界でも「世界でたった一つの・・・」という歌が流行り、「No. 1にならなくても、すでに私たちはそれぞれオンリーワンだ」というメッセージが流されていた。大ヒット曲だから、好きな人も多いだろう。

だが、非常に個性のある政治家やアーティストや芸能人が「個性」を叫んでも、私に対しては説得力はない。鳥が地を這う犬に「空を飛んでみたら」と言うようなものである。「飛べりゃあ、飛ぶよ」と噛みつきたくなる。

Liue and ducks 1.jpg
(カルガモ一家と飛べない犬。軽井沢追分の御影用水温水路にて。 プードルは水鳥を獲るために改良された狩猟犬。ただ我が家のワンコは水鳥を前にしても、その本能は目覚めないらしい。目覚めてもらっても困るが・・・。)

通信社勤務時代に東京の代々木公園で踊っている「竹の子族」と言われる若者たちを取材したことがある。もう最盛期は過ぎていたが、それでも奇抜な衣装を着た若者たちがたくさん集まり、一心不乱に踊っていた。

何人かにインタビューをした。答えはだいたい同じ。彼らは不良少年少女ではない、どちらかといえば真面目な若者たちである。「楽しいから踊っている」「これが自分たちのスタイル、何か反抗したいわけではない」という、ユニークではあるが優等生的な発言だと思った。

この取材で感じたことは、「彼らは特定のグループに属している人々であって、本当に個性的なわけではない」だった。本当に個性的なのは、最初に奇抜な衣装を着て踊り始めた人々であり、それ以降の人々は「フォロワー」である。

人は、「個性的(オンリーワン)」になりたくて、なろうと思っているが、実際は「個性的な人を真似ているだけ」なのかもしれない。

そもそも、私の経験上、オンリーワンになるよりナンバーワンになるほうが簡単だった。No. 1というのはいろいろある。遊びでも駆けっこでもゲームでも学業でも、友達間での No. 1、町内の No. 1、クラスの No. 1など様々。私もそういう意味では何度か No. 1 になったことがある。

だがオンリーワンというのはむずかしい。オンリーワンは非常に主観的、恣意的だからだ。自分の過去を振り返ってみると、オンリーワンの場合には恥ずかしいことばかりだった(例えば、予防注射で倒れたのは、学年でおれだけ、とか)。「もともと特別な only one」も私は自信ない。

驚いたことに、最近「個性的」と言われるのを嫌う若者が多いらしい。「人と違う」と思われるのが嫌なのだという。

Japanese crowd.jpg
(個性ある人ない人行き交う交差点。)

個性的でありたいと思ったり、人と違うと思われたくないと思ったり、いったい何なんだろう。日本人にとって「個性」は鬼門なのに違いない。

英語を通して外国人と交流したり、外国についての文献を読んだりしたが、一般的には確かに外国人は日本人よりも個性的ではある。だが、それ以上に「他人を判断(評価)しない(私は私、あなたはあなた)」という彼らの考え方が気に入っていた。

英語のドラマなどを見ていると、Don’t judge me. という台詞をよく聞く。つまり「私のことをあれこれ言うな、だめとかいいとか言うな」という意味である。元々西洋には個人主義的な考え方があったからなのか、あるいは最後の審判は神が下す、という宗教的思想が背景にあるのかもしれない。

ひるがえって日本はどうだろうか。日常生活や社会生活において細々とした規則があって、どうも窮屈である。それは「おもてなし」の悪い面ではないだろうか。気を遣うということは、「他人にあれこれ言う」「皆と違うことをするな」ということにも通じる。

本当に大切なのは、「個人をそのまま認めること」ではないだろうか。その人が個性があろうとなかろうと、ただの凡人であろうとなかろうと、どうでもよい。ただただその人がその人であることを否定せず、その人の考えや行動をとやかく評価せず、ありのまま受け入れることのほうが、はるかに大切ではないのか。

もちろん最低限のルールは守らなければならない。それは生物の種の存続に不可欠なことである。他人を傷付けたり、決まりを守らなかったり、そうしたことが良くないのは、倫理でも法律でも自己都合でもない。種の存続を脅かすからやってはいけないのである。

例えば群で獲物を追う捕食動物(狼とか人とか)が、バラバラな行動をしたら、獲物は獲れず、群全体が食糧不足で死んでしまう。だから群のメンバーはルールを守って共同で行動する。人間は知能がちょっと発達してしまったので、それを「倫理」や「宗教」や「法律」と名付けかっこつけただけである。

そういうルールも必要な最低限でいい。そのうえで、個人の生き様を許容する。すると「公園デビュー」(もう死語に近いそうだが)も「仲間はずれ」も「いじめ」もなくなるだろう。

自分たちと違うからといって、他人を無視したり、あれこれ指図したり指摘したりしない。そのうえで、必要があれば団結する。

今の社会は何か逆のことをやっているような気がする。自己都合のためのルールで人を縛り、本当に必要なことは避ける。外圧がなければ自己改革できない会社はうんざりするほど見ているはずだ。

自分は世界で一つだけのオンリーワン、なんてどうでもよい。only one でなくて、one of them でもいい。自分は自分として認めてくれればいいのである。

そういう社会になれば、なんと楽であることか、と思う。


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posted by ロンド at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化

2019年06月09日

若いときはわからなかったこと


若いときはわからなかったことは多い。若いということは、エネルギーは溢れているが、智恵も思慮も辛抱も足りない。そこまで言わなくてもいいだろう、と思うが、自分の若い頃を思い返してみると、まさしくその通りなのだ。

娯楽作品としての「映画」にも、それは言える。例えば、若い頃見たときは「失望」だったが、今見ると「喝采」に変わる、という映画がある。以下「ネタバレ」もあるので、読む際はご注意のほどを。

まずは、日本のみならず世界中でディスコダンスを流行らせ、日本では「フィーバーする」という新語を造り出した歴史的映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977)。ジョン・トラボルタの出世作。

Saturday_night_fever_movie_poster.jpg
(このポーズは全世界で流行った。確かにかっこいいダンスだ。私も当時流行っていたディスコに何度も行ったが、こんなポーズは恥ずかしくてできなかった。やってもジョン・トラボルタみたいにかっこよくならないし。)

正直言って、この映画嫌いだった。

トラボルタ演じた主人公トニーは、ディスコダンスはうまい、ハンサム(とは思わなかったが)でモテる。だが生活態度が自堕落で刹那的。

当時私は主人公トニーと似たような年齢で、社会人目前。さあどう生きる。何をしたい。何をすべき。そんな葛藤があった時期。自分は悩み苦しみ、それでも努力している。それなのに、トニーは天性のダンス技術にかまけて快楽を追い求めている。あんな風にはなりたくない。そう思っていた。

トニーはやがて自立した女性ステファニーとディスコで出会い、彼女のダンスに対する真剣さに触発され、ダンスに本気で取り組もうと決心する。そんな前向きな結末も、当時の私には目に入らなかった。

それから数十年。今は180度向こう側からこの映画を見られる。年を経てそれなりの知識と経験が少しは得られたからだろう。トニーの境遇がよくわかる。必ずしも幸せな家庭環境ではない。でもダンスの素質はある。最後は心を入れ替えたのだから、自分を信じて頑張れば、きっと成功する、と今ならエールを送れる。

続いては、「ロッキー5/最後のドラマ」(1990)。ご存知シルベスター・スタローンのロッキーシリーズ5作目。引退したロッキー、トレーナーとして若手を育成することに。だが手塩をかけて鍛え上げたトミーはロッキーを裏切り、移籍。好機を得てチャンピオンになるが、その態度の悪さゆえ観客からブーイングを受ける。「ロッキーを裏切った奴にチャンピオンの資格はない」と。

Rocky_v_poster.jpg
(シルベスター・スタローンは1946年生まれで今年72歳。ロッキーはいまだに「クリード」で健在。ジョン・ランボーは、今年公開予定の新作「Rambo: The Last Blood」でメキシコの麻薬ギャングと一戦交える。傭兵物語「エクスペンダブルズ」は4が制作中。がんばるなぁ。)

ロッキーを逆恨みしたトミーはロッキーにリングでの対決を申し込むが拒否され、その場でケンカになる。ストリートファイトで、ロッキーはトミーを倒す。

「なぜ再度リングに戻り堂々とトミーを倒さなかったのか」と私は憤った。テレビカメラで撮影され一般大衆も見ていたとはいえ、ストリートファイトなんて私闘のようなもの。相手も怒りに我を忘れていたのだし、そんなケンカみたいなもので勝っても意味ない、と非常に不満な終わり方だった。

当時私は30代で若かった。体力気力もまだあった観客として、ロッキーにも同じ事を求めた。「リングで戦うべき」、「ロッキーは不可能を可能にする英雄だ」と。

だが優れた俳優・監督・脚本家であるスタローンは「年を取る」ことの意味をよくわかっていた。老化で体力は落ちるが、智恵は付く。地の利を考え、相手の弱点を突き、体力を温存しながら倒せる機会を狙う。「正々堂々リングの上」で闘う必要はない。「名を捨てて実を取る」のも大人の智恵だ。

当時はまだそれがわからなかったが、今はスタローンの意図がよくわかる。年を取ったらそれなりの戦い方がある。経験と実績がある今、「プライド」にこだわったり頼ったりする必要はないのだ。それが年の功というものだろう。

最後は、最近の映画、「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」(2017)。実はこのエンディング、私はよくわかるが、一般観客にとって超不満だったようだ。納得いかない観客は、「ロッキー5」を見た若き日の私のような人たちだったに違いない、と思う。

スターウォーズ映画としては何十年ぶりにルーク・スカイウォーカーが登場した。演じたマーク・ハミルは当時20代、初々しかった。今は劇中のルークと同じく初老の男性。

Last Jedi 2.jpg
(新スター・ウォーズ三部作の第二部「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」のポスター。最終話「The Rise of Skywalker」は今年末公開予定。邦題を「スカイウォーカー起つ」と訳してみた。この新作の予告編映像シーンは、何と「七人の侍」の有名なシーンと構図がそっくり。)

ルークは、悪の皇帝を倒し、実父であったダース・ベイダーを善に引き戻してから見送った後、ジェダイの騎士として後進の指導にあたった。その中には甥ベン(ハン・ソロとレイアの息子)も入っていたが、ベンは祖父のベイダーを尊敬し、暗黒面に墜ちてしまった(カイロ・レンと改名する)。ショックを受けたルークは姿を消す。だが、ついにレイア率いるレジスタンスたちを逃がすため、包囲するカイロ・レンの前に姿を現す。そして一対一の決闘に臨むが、レイアたちが脱出できたのを知ると、カイロ・レンの前から消える。隠棲していた別の星から幻影を飛ばしていたのだ。そして力を使い果たし、肉体を消滅させ、映画は終わる。

若い観客は、英雄であるルークに生身で戦い、カイロ・レンを倒して欲しかった。新シリーズの主人公レイを実際に指導し、一人前にして欲しかった。そしてその真逆の展開に不満を持った。

ルークと同じような年齢の私は彼がよく理解できる。指導者として失敗し、絶望し隠遁してしまったのも、理解できる(mid-life crisis)。そして、それでもなお年老いし者には、それなりの戦い方があるのだ。

これら映画のように、若いときは「どうして!」と思うことが年を経て腑に落ちることに、改めて気がつく。

今年で齢89歳のクリント・イーストウッド主演・監督作「運び屋」(2018)は、麻薬の運び屋となってしまった90歳の老人を描く映画。まだ見ていないが、この主人公に共感できることがあるとしたら、私が卒寿にならんとする頃だろうか。

私の人生において大きな喜びと感動と勇気と刺激を与え続けてくれているイーストウッドに習って、私もできる限り現役でいたい。


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posted by ロンド at 17:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画・ドラマ
プロフィール
ブログネームは、ロンド。フリーの翻訳者(日英)。自宅にてiMac を駆って仕事。 2013年に東京の多摩ニュータウンから軽井沢の追分に移住。 同居人は、妻とトイプードルのリュウ。 リュウは、運動不足のロンドを散歩に連れ出すことで、健康管理に貢献。 御影用水温水路の風景に惹かれて、「軽井沢に住むなら追分」となった。