2021年06月19日

人は信じたいことを喜んで信じたがるものだ


これはユリウス・カエサルが自著「ガリア戦記」で言っている言葉。世界中でよく使われている。いろいろ訳し方はあるが、日本で有名なのは塩野七生著「ローマ人の物語」にある「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」で、これは塩野氏の意訳。

原文のラテン語では、fere libenter homines id quod volunt credunt. 直訳すると「ほとんどの場合、人間たちは、自分が望んでいることを喜んで信じる」という感じらしい。

さて、カエサルのこの名言、コロナ禍の現代にぴったりだと思う。なぜか。

普通のテレビ番組だけ見ていれば、「新型コロナウイルスはインフルエンザより感染力が強く、致死率も高い」「マスクや手洗いは必須」「無症状感染者でもウイルスを出す」「ワクチンが必要」などが常識だと思うだろう。

だが、YouTubeや出版物などでは、それとは異なる見解を持つ人々が「コロナは怖くない」と声を張り上げている。

彼らの主張は「コロナはインフルエンザとたいして変わらない」「コロナを怖がりすぎ」「今の感染対策は過剰」「PCR検査は無意味」「ワクチンは危ない」などだ。

最近よく使われる「エビデンス(科学的根拠)」をもって実証すればよい、というが、このエビデンスというのが曲者。

実は、多数派の「コロナ肯定派」だけでなく、少数派の「コロナ否定派」にも、量の差はあれ、それぞれにとって都合の良いデータが存在するのだ。字数制限や出典提示の大変さもあって、実際のデータは省略させてもらうが、Google で調べればすぐわかる。

なぜ両者にとって都合の良いデータ(専門家による論文も含め)があるのか、というと、この新型コロナウイルスはまだ出現したばかりで、統計などのデータは不確実でその分析も道半ば。時間不足で明確な結論にはまだ到達していない。例えばワクチンでも、まったく新しいタイプのワクチンであるmRNAワクチンは、「安全性は実証済み」とメーカーは言い張り、「長期的安全性は確立されていない」と医師も含めた懐疑派は疑う。実際には接種後まだ1年以上時間が経過していないのだから、2年〜5年といった長期的安全性は実証されていないのが事実。だから「安全」も「危険」もどちらも「仮説」である。

そこで、カエサルの名言「人は信じたいことを喜んで信じたがる」が登場するわけである。

「コロナたいしたことない、怖がりすぎ」「マスク、マスクとうるさい」「コロナ不安を煽られている」「コロナ恐怖症を洗脳されている」などという立場を取る人たちの多くは、純粋に科学的視点、データにもとづく検討、論理的熟考などからその結論に達したと信じている。だが、人生の選択と同じように、ひょっとして彼らの性格や嗜好により、方向付けされているのかもしれない。

そういう人たちは、「ユニークな考え方を持っている」「人と違うことをしている」「大胆な説を唱えることが多い」「異端児的性格を持っている」「強い精神力を持っている」ように思える。

大昔だったら、台湾島の南端から大海原を目指し大海に船出したポリネシア人の祖先(客観的事実)や、はるか南北アメリカまで行った縄文人(これは仮説)に近いような冒険者タイプの人たちかもしれない。

彼らはコロナ禍でおののき、政府やマスコミの言うがままになって右往左往している(ように見える)人々を見ると、イライラし、我慢できなくなるのだろう。

一般大衆は、特に未曾有の災害となれば、ごく普通に不安を感じてしまう人々である(生命体として不安や恐怖を感じるのは当然で、そうでなかったら生き残れない)。だから未知のウイルスを怖がって感染防止対策に一所懸命となる。

じゃあ「コロナ肯定派」が「科学的データにもとづいて理性的に考え選択し行動しているか」と言えば、やはり、不安をかきたてるような不吉なデータには目を背け、メディアで主に報道されているデータに頼り、気持ちを落ち着かせようとしているのではないだろうか。

新型コロナウイルスが蔓延し、多くの人々が感染し、重傷者や死者が出ている、という事実は変わらないが、それに関するどのようなデータや統計をどう判断するか、この事象をどう見てどう対応するか、により「コロナ肯定派」か「コロナ否定派」かに分かれる、ということだろうか。もちろん、その結果の選択や到達した結論が間違っている、ということではない。

コロナ禍の様相は全国一律ではない。日本も広いので、「怖がってばかりいる」わけではない「コロナ肯定派」もいる。

例えば、私のように森の中の自宅で仕事をしている人々。パソコンと通信環境があれば、仕事はできるので、人と会う必要がなく、森の中なので家の外に出ても人と行き交うことは少ない。

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(森の中の住人は人だけではない。春になって薪ストーブの煙突から飛び込んできた「ジョウビタキ」。使用していない時、薪ストーブの煙突から鳥が入ってくることがある、とは聞いていたが、まさか本当に落ちてくるとは。一騒動の末、無事外に出すことができた。森の中に住むとそんなこともある。)

私の場合は、3.11後、災害に弱い大都会に住むことに恐怖を感じ軽井沢に移住してきたので、分類すれば「不安派」であり「自衛派」であろう。地震の揺れに怯えることなく暮らせるのは何と素晴らしいことか、と日々思いながら暮らしている。

そんな感じの「森の中のテレワーカー」は、「コロナ否定派」が言うように、不安症になっているわけではなく、「同調圧力」もほとんど感じないし、洗脳されたり、恐怖を煽られたり、政府の言いなりになっていると感じているわけではない。まして籠もる必要もない。ただし万が一感染してしまっても、誰かが責任を取ってくれるわけではないので、感染防止対策をしっかり講じるのは、「自営業」の「自衛派」としては当然のことだ。

気持ちを和ませてくれる周囲の緑や鳥のさえずり。四季折々の表情を見せる森の中の散歩。コロナ禍で仕事は減っても、果てしなく続くように思える落ち葉掃除、容赦なく生える雑草の除去、ほっとけば草原になってしまう芝生の管理など季節毎の庭仕事で忙しく、悩んでいる暇はない。近隣都市や大観光地の軽井沢中心部へ行けば、確かに人は多いが、そうであっても人の少ない散歩道がある。大都会の人口密集地とは、感染リスクやストレスのレベルが異なるのである。

カモのソーシャルディスタンス.jpg
(御影用水温水路。見事なソーシャルディスタンス!をとりながら一休みしているカルガモたち。)

確固たる意見を持つ「コロナ肯定派」も「コロナ否定派」も多くは、自分の好きな方を選んでいるのではないか、と私は推測したが、考え方はどうであっても、コロナ禍の事実は変わらない。

であれば、せめてストレスだけは下げたい。

日本人の5割が住む大都市圏。どこに行っても人の多い大都会は、自然災害のみならずパンデミックにも弱いことがわかったのだから、今こそ本気になって対応策を考えるべきではないだろうか。人口の分散が一番だと思うが、地方に移住したいと思ってもそう簡単にはいかない。生活基盤が都市にあるからだ。やはり仕事(会社)そのものが地方に移る必要があると思う。

最後にもう一度、塩野七生氏の訳でカエサルの名言を挙げたい。

「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない」


読んでいただきありがとうございます。

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posted by ロンド at 16:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 健康
プロフィール
ブログネームは、ロンド。フリーの翻訳者(日英)。自宅にてiMac を駆って仕事。 2013年に東京の多摩ニュータウンから軽井沢の追分に移住。 同居人は、妻とトイプードルのリュウ。 リュウは、運動不足のロンドを散歩に連れ出すことで、健康管理に貢献。 御影用水温水路の風景に惹かれて、「軽井沢に住むなら追分」となった。