惨渦二度目の夏、緊急事態宣言にもかかわらず、例年より少ないとはいえ、多くの観光客が軽井沢を訪れた。
そんな人を惹きつけてやまないリゾート避暑地軽井沢。
時は、3万2千年前。軽井沢の南に位置する八風山は、日本列島に着いたばかりの、まだホモ・サピエンスとしか呼ぶしかない人類を惹きつけていた。八風山には当時の生活道具である様々な石器の製造に適した良質なガラス質安山岩が豊富にあり、当時の人々にとって「石器アトリエ」となる重要な場所だった。
初期日本人たちは、原石から石器を作りながら北方に目を向けると、噴煙を上げる浅間山が見えていたことだろう。彼らが見ていた浅間山は、高さ2800メートルにもそびえ立つ美しい円錐形をした「黒斑山(くろふやま)」である(今の黒斑山はギザギザになった崩壊後の残り)。
(噴煙を上げる浅間山、といっても現在と20世紀以前の活発度はまったく違うので、この噴煙はかわいい方。)
時は進んで古墳時代。日本神話の一大ヒーロー、ヤマトタケルも軽井沢に来ていた。もし実在していたら、西暦380年頃のことだったと思われる(古事記・日本書紀に綴られたヤマトタケルの話はけっこう具体性があるので、モデルとなった人物は存在したかもしれない、と私は思っている)。
日本書紀によると、父の景行天皇に命じられた東征の帰路に「碓日嶺」を通って信濃に入る。嶺の上で、途中亡くした妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)を偲んで、「我嬬(あづま)はや」(ああ、我が妻よ)と嘆く。その時向いていた方向は東側、つまり群馬県側だったが、振り返って北を見やれば、噴煙盛んな浅間山が見えたことだろう。今とはちょっと火口の位置が違ったようだが。
「碓日(うすい)峠」は、この時代(古墳時代)、今の碓氷峠ではなく、入山峠だったと考えられている。そしてヤマトタケルが通った峠道は「東山道」の原型か。
国道18号バイパスを東に進み、ちょうど群馬県との境界が入山峠。そこには「入山峠遺跡」があり、古墳時代の祭祀具(勾玉とか土器とか)が発掘されている。古代、そこで「道中の無事を祈って、お祭り(お祈り)をした」と思われる。古墳時代人にとって、入山峠は重要な場所だった。
さて、山を下りて浅間山麓には人は住んでいたのだろうか。
いまだ元気な活火山浅間山は、これまでも記録に残る激甚災害を起こした天仁噴火(1108年)、天明噴火(1782年)を始め、何度も大噴火を繰り返しているから、山麓なんかに落ち着いて住めるとは思えない。それに、標高1000メートルの高地ゆえ寒くて住むこと自体大変だ(「新浅間山ハザードマップの衝撃」「予兆なし、浅間山噴火」)。
と思いきや、調べて見ると意外だった。古墳時代どころではなく、その数千年前、縄文時代から人がいた。町内あちこちに縄文遺跡がある。
とはいうものの、追分の我が家など、天仁噴火(1108年)による追分火砕流の上に建っている(「軽井沢の大地に刻まれた12世紀の面影」)のだから、もし町内に遺跡があっても12世紀以前の遺跡など厚さ8メートルの火砕流に埋もれてしまっているはずだ。
と思いきや、御代田の浅間縄文ミュージアムで買った群馬大学教授早川由紀夫著「浅間山の噴火地図」を見てみると、借宿から東側は追分火砕流が来ていなかったのだ。だから、中軽や旧軽あたりは縄文から中世までの遺跡があちこちから発掘されていたわけだ。ただ、住居址は見つかっていないので、やはりじっくり住み続けた人々は少なかったのだろう。
軽井沢町公式HPには、軽井沢町遺跡詳細分布地図があって、ダウンロードして見てみると、中軽井沢から発地方面にかけて遺跡が多い。縄文遺跡は前期と中期が多いが、そのころは暖かい時代だったので、高地の軽井沢でもそれなりに人が住めたのではないだろうか。
つい最近まで私が知っていた軽井沢最大の遺跡は、「長倉牧の牧堤跡」だけだった。
中軽井沢の、国道18号から北に延びる通称「ロイヤルプリンス通り」をちょっと行くと、人気の惣菜店「けろけろキッチン」があって、そのすぐ北にこの「牧堤跡」がある。
(軽井沢町教育委員会と軽井沢町文化財審議委員会が連名で案内板を設置している。しかし、牧堤の土手にしては小さすぎないだろうか。)
信濃は平安時代の昔から馬の産地で、佐久地域には望月牧、塩野牧、長倉牧という官営牧(つまり国営馬牧場)が3つあり、何十頭もの馬が飼育されていた。
牧堤というのは、馬が牧場から逃げないようにするための境界だというが、この写真に見える長倉牧の牧堤はなんとも小さい。はたしてこの程度の堤で、いくら当時は小型だったとはいえあの体躯の馬を留めておくことができるのだろうか。
そこで私はもう一つの「牧堤跡」である、望月牧の「野馬除(のまよけ)」跡にも行って見た。場所は東御市の、その名も「御牧ヶ原(みまきがはら)」。東御市にはこの「野馬除」跡が10箇所残っているという。ちなみに、この野馬除から南に三キロほど下ると、「望月」の名を受け継ぐ旧中山道の望月宿がある(「中山道を往く」)。
軽井沢の「長倉牧の牧堤跡」と「望月牧の野馬除跡」を比べてみると、その大きさの違いがよくわかる。
望月牧は、信濃国に置かれた十六牧のなかで最大規模だったといい、写真ではあまりよくわからないが、U字型に溝が掘られ、左右の土手はかなり盛り上がっている。土手の上には柵が建てられていたとのこと。これならば馬は逃げられない。
(野馬除の説明板。この先に「牧堤」が残っている。御牧ヶ原はなんとも牧歌的。こんな環境で馬は伸び伸びと育ったのだろう。)
(中央の溝は本来はもっと深く、左右の土手はもっと高く、柵はその土手の上に建てられていたという。)
中軽井沢の「牧堤跡」は実際には牧堤跡ではない、と異議を唱えたのは、軽井沢に住む地理研究者江川良武さんである。あるときネット上で、「長倉牧の軽井沢比定説について」という氏の論文を見つけて、その説に驚いた。
一般に理解されているところでは、中軽井沢の「長倉牧の牧堤跡」はさらに東西に延び、追分火砕流の上にも跡が続いている。レーザーを使った3D航空写真でも、その跡が認められている。
江川氏の論文にも書かれているが、鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」の文治2年(1186)記事で、長倉牧含め信濃諸牧二十八のことが記載されている。つまり、その年には「長倉」は牧として機能していたことを意味する。ということは、「長倉牧が軽井沢にあった説」では、天仁噴火(1108)による追分火砕流で(少なくとも追分側は)潰された長倉牧がそれから約80年後には復活していた、ということになる。
私も論理的に考えてみると、軽井沢側に火砕流は発生しなかった天明噴火(1783)でも、それ以降明治まで長い間追分を含め軽井沢地域は荒れ野となっていたのだから、天仁噴火以降、そんなに短期間で馬の飼育に適した状態に戻せるとは思えない。冷えたとはいえ馬に火砕流の噴石だらけの上を歩かせるなんて、動物虐待だ。考えただけでも恐ろしい。
さらに追分火砕流に覆われた地表は江戸時代にも融雪泥流で覆われていて、3D地図に写る「跡」はそれ以降、つまり江戸後期か末期に作られたものではないか、と江川氏は推定する。
江川氏は、軽井沢の「長倉牧堤跡」は、牧堤ではなく、江戸時代後期以降に作られたなんらかの「境界」なのだろう、そして長倉牧は追分火砕流の被害を受けなかったところにあったはず、と推論している。
追分火砕流の上に住んでいるから、というわけでもないが、私もそう思う。
では、長倉牧はどこにあったのか。
(以下後編に続く)
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