(前編より続く)
「軽井沢」という地名は馬と関連があるという(「軽井沢、かるいさわ、かるいざわ」)。
江川氏は、民族学者柳田国男が提唱した「背負う」を意味する古語「かるふ」から「かるいさわ」が生まれたという語源説を支持・補強している(先日再放送された「ブラタモリ軽井沢編」では、「軽石が多い」から「軽井沢」と名付けられた、という「軽石沢」語源説が語られていた)。
「背負う」のは足場が悪い場所で馬に代わって人が荷物を背負うことで、具体的にどういう場所で人が荷を背負うかというと、坂道というのが従来の見方だった。しかし江川氏は湿地帯でも馬は脚をとられるので人が代わって荷物を運ぶ必要がある、と考えた。だから「かるいさわ」と呼ばれる集落は、坂道だけでなく湿地もあるような場所に存在していることが多い。同地名が東日本に多いのは、馬の飼育や使用は東日本が優勢だったから、という。なお、「沢(さわ)」という言葉は東日本では坂道や谷を意味した。
(歌川広重描く、望月宿での馬による物資の輸送。望月宿行ったけれど、こういう感じの場所あったかなあ。わかるはずはないか。)写真提供:メトロポリタン美術館
軽井沢には「長倉」という地名があり、それがそもそも「そこに長倉牧があった」と思い込む要因の一つになっているのではないか。この地名は何なのだろうか。
実は古代の「長倉」は非常に広い地域を示しており、御代田町、小諸市などにも「長倉」の地名は字として残っている。軽井沢の「長倉」は、たまたまその中で残った大地名ということだ。
例えば「武蔵の国」は、今の東京都ほぼ全域、埼玉県と神奈川県の一部を占めていたが、現在「武蔵」を地名として持っている場所はごくわずかである(例えば「武蔵野市」)。それと似たようなものかもしれない。(そういえば、6月27日放映の「青天を衝け」で、渋沢栄一と土方歳三が二人とも元は「武州の百姓」で、意気投合した、というシーンがあった。今の感覚で、渋沢の埼玉県深谷市と土方の東京都日野市が同郷とは思えないが、当時はともに「武蔵の国」だった。)
では、本当の「長倉牧」はどこにあったのか。
江川氏によると、古代の官営牧は何十頭もの馬を通年で飼育するのだから、それなりの「人員」と人と馬を養う「食糧」が必要になり、それは現地調達となる。そうすると軽井沢の今の「長倉」あたりでは、ちょっとむずかしいのではないか。火山噴火の影響で荒れ野か湿地帯になっていて、さらに標高千メートルでは高地すぎて米は作れない。
また「牧」となると、平地すぎては長い柵が必要になってしまう。適度に自然地形が囲い込むような状態になっているのが効率的だ。そうなると軽井沢はけっこう平らで牧としては不適当かもしれない。
そこで、追分のお隣「御代田町」はどうだろうか。平坦地は標高700〜800メートル台で、平安時代でも米作が可能だったという。それに、御代田町小田井とそれに隣接する小諸市御影あたりは、縄文から中世まで、幅広い時代の遺跡(住居址、土壙墓、土坑、土器類)が多数発掘されている。浅間山噴火の影響が少ないため、長い間継続して人が住めたことを示している。
さらに御代田や小諸には「田切地形」もある。実は12世紀の追分火砕流よりはるか昔、約15,800年前、浅間山の噴火により大火砕流(平原火砕流)が生じ、佐久市まで到達した。国道18号を小諸に向かって走ると、深い谷が見られるが、あれは平原火砕流の地表を川が穿ってできた地形なのだ。
私も初めて田切地形を見た時、どれほど長い時間が大地をあれほど穿ったのだろうか、と不思議に思ったものだ。火山噴火で地形が何度も変わっているだろうから、数十万年も安定した地形でいられたはずがない、という認識があったのだ。だが、堆積した火砕流や軽石などは比較的柔らかい土壌なので、細い水の流れでも約1万5千年かければ、あれだけ深い谷が作れるというわけである。
御代田の町役場あたりから小田井方面は、追分火砕流が届かなかったので、平原火砕流を川が穿った田切地形が見られる。
例えば、戦国時代に建てられた小田井城。犬の散歩で行ったことがあるが、三方を深い谷に囲まれている。そういう田切地形は、平地部分がある程度広ければ馬の放牧にも向いている。
(城跡があるのは知っていたが、西友御代田店から歩ける距離にあるとは思わなかった。1547年に武田軍と地元佐久勢力との間で激しい戦いが行われたという。今はのんびりとした農地なので、兵どもが夢の跡、という感じである。)
(掘は二重の掘となっている。この写真ではよくわからないが、中央に見える二本の木の間が、中央の盛り上がり部分で、左右が堀。)
小田井城から西に行くと、広大な水田が広がっている。御代田町、佐久市、小諸市にまたがったこの水田地域は、鋳師屋(いもじや)遺跡群と呼ばれる広大な遺跡が眠っている。私もここを東西に走る県道137号線(借宿小諸線)をよく通るが、西屋敷あたりは古い感じが残っている。かつては奈良から平安時代にかけ大集落だったようだ。重要なのは馬の埋葬跡が見つかっていることだ。
また、当時の街道、東山道はこのあたりを通っていた可能性があり、「長倉駅」(中継基地)が置かれていたとも言われている。おもしろいことに、「長倉牧」は軽井沢地域にあると考える人が多いのに、「長倉駅」はこの小田井周辺にあったと考える研究者が多いのだ。
人もたくさん住んでいて、田畑もあり、埋葬馬が発掘されていて、田切地形が適度に天然の牧堤となっていて、これはもう「ここが(このあたりが)長倉牧だ!」と言ってもいいのではないだろうか。
(今は水田地帯となっている鋳師屋遺跡群付近から、浅間山を仰ぐ。)
ちなみに、もう一つの官営牧である塩野牧は、現在も塩野として地名が残っている地域にあった、とほぼ誰もが考えている。
総括すると、官営馬牧場という性格上、荒れ野の軽井沢に設置するのは難しく、縄文時代以降の遺跡があり大きな集落があった御代田町小田井付近に長倉牧があったとするほうが合理的な説明が付く。中軽井沢の「長倉牧の牧堤跡」は実際の長倉牧堤跡ではない可能性が高い。
長倉牧の牧堤跡ファンには申し訳ないが、私も前編で記した江川氏の論文「長倉牧の軽井沢比定説について」にある上記の結論に賛成である。
賑わった夏も終わり、紅葉シーズンまでしばし静穏な軽井沢。3密とは無縁の遺跡巡りには良い気候。遺跡巡りとはいっても、ほとんど史跡として残されているわけではないので、地図に示された場所に佇み、いにしえに思いを馳せるだけだが。
私にとって軽井沢はリゾートとしてだけでなく、古代史においても魅力的な町である。
読んでいただきありがとうございます。

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