世界の常識は「やられたら、やりかえす」である。
いや、そんなシリアスな意味ではなく、常識的な範囲でのコミュニケーションにおいてのこと。
留学経験のない私が、初めて大勢の外国人を相手にしたのは、確か24才ごろ、アメリカからの短期留学生をガイドした時である。

(アメリカのとある高校)
主に西海岸からの高校生(16〜18才)で、短期留学は2ヶ月くらい。各ホストファミリーのところに行く前に、1週間ほど東京や京都を旅行するというプログラムで、私はその旅行の添乗を依頼された。
ドラマなどでよくある生意気で、未成年なのに男女いちゃいちゃしたりするアメリカ人高校生のイメージとはまったく異なり、男女とも皆とても素直でかわいかった。西海岸出身ということもあり、背もそれほど高くなく、人なつこい。肌の色も、髪の色も、目の色も、様々。映画やドラマで見る情景や添乗員として現地をさっと通り過ぎるような過ごし方と違い、ごく至近距離で「移民が作った国アメリカ」が動いているわけだから、とても刺激的だった。
英語もわかりやすく、変なスラングなどほとんど使わなかった。たぶん中流家庭の子供たちだったと思う。驚いたのが、「目をじっと見て話す」ことだった。それは知識として知っていたが、あれほどじっと目を見て話されると、なんだか不思議な気持ちになる。もちろん男子も女子も付き添いの教師も性別年齢に関係なく、程度の差はあれ、皆そうだ。色が違う大きな瞳で見つめられると、引き込まれそうだった。特に女子はその傾向が強く、もちろん親しみや好奇心などの感情はあろうが、ごく常識的なアイコンタクトコミュニケーションなのだ。
さてその40人ほどのグループの中に、二人浮いている女の子たちがいた。私たちガイドにも、意地悪というか反抗的というか、突っかかるような態度を見せていた。
こちらの指示に対し「私たちはそんなやり方はしない」とか「私たちは問題ない」とかいちいち文句を言ったり、嫌がらせのようなことを言うのだ。国が違うのだから、やり方も違うのは当然で、その二人以外からはほとんど不満は出なかった。
個人的に、人から意地悪されるという経験はあまりなかった。良い時代だったのか、小学校から高校までいじめのようなものもなかったので、そういう反抗的な態度を示す者にどう対応して良いか、わからなかった。
ましてこちらは教師でもなく、相手はまだ未成年だ。さらに「意地悪の内容」も、付き添いの教師に報告するほど深刻なものではなかった。
ただ、だんだんと彼女らの態度を腹立たしく思うようになっていった。
旅程のなかに、「東京自由行動」というのがあって、私も20人ほどを引率して、新宿駅に連れて行った。そこから自由行動なので、「行動には十分気をつけて。迷わないようにグループで行動して。・・時までに戻ってきてください」というような指示だけ繰り返した。
そして例の二人組。その時「そんなこといちいち指図されなくても、私たちは迷ったりしない」のようなことを言われた。ちょっとむかっと来たので、頭に浮かんだとある表現を使おうと思い立った。
それは、私の恩師でもある松本道弘先生が著した口語英語表現集にあったものだ。それを使い、「道に迷っても、知らないからね」をちょっときつくして、
Even if you get lost, I don't give a damn.
と言った。
do not give a damn は、do not care (気にしない)の強い口調の口語表現だが、私は「ちっとも気にしない」と軽く突き放すつもりだった。
ところが、それを聞いていた20人くらいの他の生徒たちが、その瞬間「キャー」「ウォー」と大歓声を上げたのだ。驚いたのなんのって。周りにいた人たちも、何事かと振り向いていた。
彼らは「よく言った」と歓喜の声をあげたのだ。その二人組は皆からも煙たがられていたし、日本人の私が黙って彼女らの仕打ちに耐えていたのも知っていた。だからこそ「よくやった」と狂喜したのだ。
私のその発言に、二人組は真っ青になって、「大丈夫よ」とか何とか強がって、消えていった。思わぬ大効果に、やった、ざまあみろ、と内心ほくそ笑んだ。あの表現は、日本語にすれば「おまえたちが路頭に迷おうが、おれはそんなこと屁とも思わねえよ」ほどの衝撃があったのだ。
さらに驚いたことに、私が宿に戻って自室にいたところ、午後になってその二人が「迷わずに戻ってきたよ」と報告に来たのだ。なんとしおらしいことか。
それ以降、二人は私たちガイドに反抗的な態度を見せることは一切なかった。
性格がひねくれていたのか、単に反抗期だったのか。もとより教師には楯突くことはできないから、英語を話す大人しそうな日本人ガイドがいじめやすいと思ったのか、とにかく意図的に嫌がらせをしていたのだろう。でも、「だまっちゃいないよ」という態度を、きつい英語を使って見せたら、彼女らは反抗をやめた。「やられたら、やりかえす」というのは、「こいつは、やったら、やり返してくる。バカにできない。対等に扱ってやろう」という、一種動物的なコミュニケーションプロセスなのだということが、身にしみてわかった。
私の「反撃」は、怒鳴ったわけでも罵倒したわけでもなく、ただ普通の口調で I don't give a damn. と言っただけだったのに。
子供がいじめられ、それを解決するエピソードが、アメリカのドラマや映画によく出てくる。たいてい「やり返す」ことで決着している。相手が「反社会的」「犯罪的」「個人的に恨みがある」のような場合でなければ、だいたいはこの「やられたら、(同じ程度で)やりかえす」で解決するのだと思う。ドラマや映画のエピソードは、少し誇張はあるかもしれないが、実情を反映しているはずだ。
もちろん異常な例外はいくらでもあるだろうが、外国においては、我慢せずに勇気を持ってその都度やり返せば、ケリがつくことも多いのだろう。直情的ではあるが、とてもストレートでわかりやすい。やり返せばどんどんいじめがエスカレートして陰湿になるような日本ではこうはいかないのだろう。
それにしても、あの二人組の変わりようといったら、なんともかわいらしいというか、興味深いというか、予想だにしなかったハプニングで、ほとんど海外在住経験のない私にとって、とても貴重なリアル異文化コミュニケーション体験だった。

(新宿駅で切符を買う外国人)
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