庭にいるとき、列車の走る音がふんわりと聞こえてくることがある。
しなの鉄道は私が住む追分の東から南に向かって走っているのは知っていたが、1キロ近く離れているし、しかも線路は堀割を走っている。だから、その音が我が家まで届くとは思わなかった。

(三両編成のしなの鉄道。撮影場所は、御代田と信濃追分の間)
たまたま列車が通っているとき東風か南風が吹いて、たまたま私が庭にいるときに聞こえる音だ。
木霊するようなガターンゴトーンという列車の遠鳴りは、不思議に気持ちが和む。
オーケストラの演奏でも、劇場内の「遠鳴り」は特別な音響効果があるという。間近で楽器が奏でられていると、音量は大きく音のぎらつきが体に響く。だが、遠くまで届く音、遠鳴り、は、様々な音がバランス良く混じり、適度な音量や音質となって、耳当たりよく響く。
遠くまで届かせるには、大きな音を出せば良い、というものではない。だから遠鳴りする音を出すには、かなり高度な演奏技術が求められるという。
列車の遠鳴りも、線路と車輪の金属音など耳にきつい音素が様々な音と組み合わさって、心地よく響く音に変わるのだろう。
列車の遠鳴りで心地よさ以上に感じるのものがある。それは、なつかしさである。
そういえば、生まれ故郷の甲府でも、列車の遠鳴りをずっと聞いて育った。当時住んでいた家から、南の方向に中央本線が通っていた。
実際は線路から我が家まで800メートルくらいしか離れていないが、そのころはもっと遠いと思っていた。
生まれ育った街は、道は広く、建物は高く、線路は遠かった。自分が小さかったから、回りの世界が大きく見えていたのだ。
列車の遠鳴りはそのころのイメージと重なり、郷愁を感じさせるのだろう。
テレビでは「鉄道の利用」を勧める鉄道会社のコマーシャルが流れ、鉄道をテーマとした刑事ドラマや、芸能人が日本各地を旅する番組などもある。特にコマーシャルは、魅力的な観光都市、地方都市、自然の風景が映され、耳に残る音楽が流され、いかにも「鉄道でどこかに行けば、良いことがある」と思わせるよう作られている。
それらは「鉄道の音=ノスタルジー」の連想を一般大衆に刷り込むには大いに効果があったことだろう。列車といえば通勤電車、という都会っ子でさえも、列車の遠鳴りを聞くと郷愁を感じるのではないだろうか。私もそう刷り込まされた一人かもしれない。
ただ私の場合、ノスタルジー以上に感じるのは「異界感」である。列車の遠鳴りを聞くと、とたんにイメージは夕暮れになり、どこか知らない世界への門が開くかのような雰囲気が自分の中に生まれるのだ。
私が幼いとき、遠くに行くには電車しかなかった。もちろん自動車はあったが、当時はまだ自家用車を持っている家庭は少なく、我が家も家族旅行は、いつも電車だった。
しかし 楽しかったはずの家族旅行なのに、なぜかどこに行ったのかほとんど覚えていない。
旅行の記憶は不鮮明だが、「どこか知らない場所」の夢はよく見た。今でも時々見る。自分の知っている、または見たことのある街に似てはいるが、実在してはいない街。しかし非常に鮮明な映像の夢。
ひょっとして、家族旅行で行ったのはどこか別の世界であって、戻ってきたときには記憶が消されてしまう仕組みになっている、異界旅行だったのかもしれない、などと夢想してしまったりする(spirited away = 神隠しに遭う。「千と千尋の神隠し」の英語タイトル)。
たぶん、幼い頃は世界が狭く、その世界の外に行く手段は鉄道だったから、列車の遠鳴りを聞くと、そういう異世界に行く、という感覚が生じるようになったのであろう。
ところが軽井沢に移り住んで、つい最近、列車の遠鳴りは聞かなくても、同じような「異界感」を感じたことがあった。
それは、軽井沢千住博美術館(http://www.senju-museum.jp)に行ったときだった。
幻想的な作品が多い絵画の中で、とりわけ私の足を止めたのが「月映」。中央に多くの線路が通っていて、向かう先はいくつものプラットホームがある駅。左右にはビルが立ち並んでいる。駅も建物も地平線まで続き、空には月が浮かび、月光で風景が夕暮れ時のように見える。
この作品が描く世界は、知っているようで知らない世界。そこは鉄道が象徴的な位置を占めている。
列車の遠鳴りを聞く度に感じていた異界感が、目に見えるものとして現れたのが、千住博の「月映」だった。
(千住博の「月映」。撮影が許可されている期間に、千住博美術館にて撮影)
千住博画伯といえば、代表的なモチーフである「滝」。その発展形という「地の果て」。見ていて冷たさを感じるという人もいるが、不思議に引き込まれてしまう世界観がある。
それらの淡色系作品に比べると、「月映」は温かみがあると言えるが、「別世界」の感覚は強かった。
リゾートであり観光地であり、文壇や画壇を惹きつけてやまない軽井沢そのものが、異界なのかもしれない。
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