江戸時代の街道を行くのは危険がいっぱいだ。中山道のような「一日中、山道」では、山賊は出るは、野犬は出るは、熊は出るは、さらには今は絶滅してしまった狼は出るは、で命がけの道程であった。
というのが、数年前までの、私のイメージだった。
軽井沢に来て、我が家のすぐそばを中山道(旧中山道)が通っているのを知った。旧軽井沢銀座は、そもそも「軽井沢宿」であった。碓氷峠の向こう側、群馬県の坂本宿からは碓氷峠を越え、軽井沢宿に着くまで約8.5キロの「山道」は、確かに「一日中、山道」だったかもしれない。だが、道中数カ所休憩所もあって、日中であればそれほど危険ではなかったと思われる。
(旧中山道の、碓氷峠から群馬県側に下りる方向の道。Google Map には載っていないが、歩いて麓の坂本宿まで行ける。我が家のワンコは一応オオカミの子孫だが、誰にも怖がられない。)
中山道ではだいたい1〜2里ごとに宿が設けられていた。つまり、宿から宿までの距離は4キロから8キロくらい。歩いても、1〜2時間で踏破できる距離である。ましてや軽井沢宿から佐久市の八幡宿まではほぼ平地である。
危険がいっぱいの道中、というのは私の妄想だったのかもしれない。それほど江戸時代には交通インフラが整備されていたわけだ。
軽井沢宿から沓掛宿(今の中軽井沢)、追分宿、そこから南下し小田井宿(御代田町)、岩村田宿(佐久市)までは、追分住人である私にとっては日常的に通る道となっている。

(小田井宿。観光地化されていないが、意外と昔風の建物が残っている。海野宿と同じように中央に水路が走っていたという。)
かつて「宿場町」だったところは、観光に訪れる人も多く、歴史保全など行政の方針や住民たちの努力により、それなりに古い建物が残っていたり再現されていたりする。
実際にはどんなだったか。幸い日本には昔ながらの宿場町がいくつか残されている。妻籠や馬籠、さらに北国街道の海野宿を見れば、当時の街並みが容易に想像できる。今でもほぼ江戸時代の風景と変わらないはずだ。
だが、宿と宿のあいだの道はどうだったのだろう。道際に家は建っていたのだろうか。安藤広重などの街道を描いた浮世絵が描くのは、多くは宿であり、特徴的風景を背景に描いた旅人だったりして、街道がどんな様子だったのかはあまりわからない。
山中の街道は、想像が付く。以前箱根の山中を通る石畳の東海道を歩いたことがある。山道でも石畳が整備されていた。
中山道では、落合宿と馬籠宿との間、十曲峠には奇跡的に石畳の街道が残っている。写真で見る限り、けっこうちゃんとした石畳である(もちろん近代に補修され維持管理されているものだが)。
坂の山道で雨でも降ろうものなら、道がぬかるんで、進むに進めないだろう。大名行列だったら、なおのこと大変である。だから一部は石畳の舗装にしたようだ。だが、平地ならばきちんと管理すれば、人が歩くぶんには無舗装の土の路面で問題なかったのだろう。
宿が点在する佐久地域周辺だが、これまで行ったことがない岩村田宿から先の中山道を見てみたいと思い、仕事が休みの日、望月宿まで辿ってみることにした。気力はあるが、歩く体力も時間もないので、文明の利器(自動車)を借りた。
岩村田(いわむらだ)から佐久市街地を西に向かって進み、次の宿場町「塩名田(しおなだ)」へは約5キロの行程。宿場内は、あちこちに古式な構造の建物が見える。西端は千曲川となり、雨などで川止めとなると大名行列を始め一般の旅人も留め置かれるため、大いに賑わったという。
塩名田で一番昔の風景が残っているのは、千曲川に向かって下る道筋。今でも老舗の川魚料理店を始め数軒昔風の建物が建っている。
(左:塩名田宿の、千曲川に下るところの街並み。江戸時代にも橋は建てられたが、何度も流されたという。千曲川は今では想像できない暴れ川だった。)
(右:川魚料理店の玄関。ネコの置物、と思ったが、次の瞬間には消えていた。本物だった。)
(右:川魚料理店の玄関。ネコの置物、と思ったが、次の瞬間には消えていた。本物だった。)
川を渡ると1キロほどで八幡(やわた)宿に着く。当時の中山道はかなり往来があり、八幡は農産物等の集積所だったこともあり、宿が作られたという。
八幡宿から、山を一つ越えて、3キロほどで望月宿。ここは古い街並みが比較的多く残っていて、望月歴史民俗資料館もある。この宿は千曲川に注ぎ込む支流の鹿曲(かくま)川の左岸に位置している。最初は右岸に作られたが、洪水で流され、左岸に新たに建設されたという。
(左:望月宿の街並み)
(右:鹿曲川の流れ。向かって左側が宿場町。直接川面に出られるようになっている家もあった。)
(右:鹿曲川の流れ。向かって左側が宿場町。直接川面に出られるようになっている家もあった。)
追分からこの望月宿まで23キロ程度、車でまっすぐ来れば40分以内で着ける。江戸時代は、一所懸命歩けば、朝追分を出て夕方には望月に着けたかもしれない(千曲川がすぐ渡れれば)。実証してみたい気もするが、気持ちだけにしておこう。
中山道を通ってみると、不思議なことに宿場町ではないただの街道筋だったところにも、古風な家を見かける。典型的な特徴は、敷地を囲む背の低い白い土塀とよく剪定された松などの庭木。塀や建物自体はそれほど古いわけではない。おそらく、かなり昔から街道筋に居を構えていた住人が、伝統として同じ仕様の家屋を建て続けてきたのだろう。自家の歴史に対する誇りが感じられる。
さらに、中山道のような知られた街道ではない一見普通の舗装道でも、そうした「白い塀の家」に出くわすことがある。その近所を散歩してみると、道祖神があったり祠があったりする。近代に作られた舗装道のように見えたが、実際にはおそらく江戸時代から使われていた道なのだろう。

(御代田町のとある道。白塀の家や昔風の家が数軒集まっている一角がある。)
何気ない道で歴史を発見できるのも、近代化の波に完全に巻き込まれていない田舎の良さの一つである。
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幕末日本に来た外国人が日本の様子を見て驚いたことが二つあると聞きました。
一つが識字率の高さ。庶民になるべく真実を隠していた欧米と比べ半分以上の国民が文字をきちんと読めたそうですね。
そして二つ目が旅をしている人の多さ、らしいです。一生に一度はお伊勢さんに、をはじめ各街道が整備され旅人が飢え死にしないためミカンの木を植えていた、というから国を挙げて旅を奨励していた感さえ感じられます。
グローバルという言葉が身近になってだいぶ経ちましたがたまには旧街道を散策してみるのもいいかもしれませんね。
「一日中、山道」は、彼女が残した歴史的常套句になった名句であると理解し、使わせていただきました。
確かに、江戸時代末期の民衆の識字率は、世界最高クラスだったのではないかと思います。
旧街道散策はローカルかと思いきや、木曽街道など、妻籠や馬籠などを通る旅人(旧街道を歩く人)の半分は外国人というグローカルな観光地になっているそうですね。追分宿などもそこまで観光客は多くないですが、思い立ったらすぐ行ける旧街道や宿場町が近くにあるのはいいものだなと思います。