2017年10月08日
日本人は道(みち)が好きだ。「茶道」「華道」「剣道」「柔道」「書道」、私が恩師から学んだ「英語道」もある。いわゆる何かを行うための「手順」を「道」と呼び、一種の哲学化をしている。
「過程尊重」という思考・行動パターンによって、日本人は「道(みち)」という概念を大切に思うようになった。
本家中国の思想家、荘子による「道」の定義は難しくてわからない。日本人の「道」はそんなに複雑なものではなく、「過程尊重」のことだと思う。
(「ぼくも散歩の道が好きだ」)
「道」を着実に歩いてきた日本人に、最近は何か異変が起きているらしい。
過労死、ブラック企業、フリーターの増加、定年退職男性の無力感、若い人々の働く意味の欠如感、帰宅恐怖症やフラリーマンの増加、学校でのいじめ、公園デビューなどの近所づきあいの息苦しさ。どうも変な方向に進んでいるように思える。
一部の優良企業、中小企業などの世界シェアトップを占めるオンリーワンの企業、新進気鋭のベンチャーなど、優秀な人々、人並み以上に努力ができる人々はのぞき、多くの労働者は、「働くことについて暗闇にいる」ように思える。
その暗闇は、やはり「過程尊重」にあるのではないか、と思った。
過労死やブラック企業は、制度や倫理の問題とは別に「過程尊重」の勤労精神が悪用されているから生じることだと思う。
学校などのいじめや公園デビューなどの近所づきあいの息苦しさも、「過程尊重」の間違った発現によるものではないだろうか。
フリーターの増加、退職後の男性の無力感、若い人々の働く意味の欠如感、帰宅恐怖症やフラリーマンの増加、これらも「過程尊重」の本能が満たされない、現代の仕事の在り方が問題なのだろう。
「目的指向」の場合は、一番数の多い一般労働者において、強調して言えば、働くのは「自分の自由時間を大切にするため」の手段であって、「人生は楽しむことにある」のだ。
だが日本人は、欧米のような「効率的・効果的な働き方」とか「余暇の活用」とか「人生を楽しむ」とか、そういうやり方は合わないと思う。そういうのはすべて「目的指向」の働き方・生き方である。
「過程尊重」の働き方・生き方は、「仕事の中に、尊重できる過程が存在すること」で、労働に生きがいを感じ、それが人生であり、それあっての「自由時間」なのだと思う。
ではどうしたらよいか。
例えば日本人が発明したものではないが日本で大発展して日本経済の拡大に寄与している「QCサークル」がある。機械化、ロボット化、AI化でますます人の手が入らなくなる現代の労働環境でも、QCサークルは過程を実感できる良い方法だと思う。
労働に哲学を持ってくるのも、一つの方法。代表例は、京セラ創設者稲盛和夫が創出した「京セラフィロソフィ」だ。私も仕事で頻繁に京セラ関連文書を翻訳しているが、それ自体確かに生きる指標になる。叱咤激励されすぎて「勘弁して」と尻込みしたくならないわけではないが、みんなで一緒にやれば何とかできる。稲作と同じ。一人じゃないんだ、皆がいるんだ。
内容にもよるが、創設者の「企業哲学」「人生哲学」を実践することは「過程尊重」にもつながる。実際そういう企業も増えているという。
また、近年疲弊が激しい農業においても、解決法はある。例えばトヨタが十八番の「カイゼン」を農作業に応用し、効果を上げているという。農作業プロセスを見直すよう提案するわけだが、「なぜ、それをそのようにやるのか」を問いかけることが基本という。
(田植え祭りでの、田植え。現代では、手作業での田植えは、イベントなどで見られるだけ。出典:ウィキメディア・コモンズ、撮影:mahlervv)
どんな仕事でも、「なぜ、それをそうやるのか」を考えることは、組織的なものがなくても、QCサークルと似た効果を発揮できると思う。
さらには、仕事のやり方自体に最初から「過程尊重」できるようなプロセスを設けることだ。
今は「プロセスをいかに省くか、効率的にするか」ばかりが求められる。だがそれを突き詰めると「支配する経営者」と「支配されるロボットのような労働者」に二分されてしまう。結果として、労働者の意欲低下、暴動、社会の没落に発展するかもしれない。
それだったら、少しプロセスを増やしてでも、「過程尊重」できるビジネスモデルを作ったほうが、結果としてはより良い物ができるし、労働者も生きがいを持てるし、二重三重の恩恵が得られると思う。
単に、欧米型効率的労働とか人生を楽しめとか休みを取れとか、「過程尊重」ではない人たちの真似をしても、日本人には実践できないだろう。
誰か偉い学者さんが、川田氏が見いだした「過程尊重」の応用範囲を広げ、「日本の生きる道は過程尊重にある」と提唱して欲しい。働き方の改革などにおいて、例えば長時間労働の是正など具体的に対応策を講じるのは良いが、根本的には「過程尊重」という哲学が必要であり、「労働において過程尊重できるプロセス」を加えることが不可欠だと思う。
それが日本人のやってきたことだからだ。それが日本人が一番うまくできることだからだ。それが日本人の生きる道だからだ。
なお、人間にはいろいろな要素があるので、日本人全員が「過程尊重」の精神を持っているわけではなく、「目的指向」の人も「パイオニア精神」の人もいる。外国でも同様。だから、「一般的に」「相対的に」「傾向がある」「多くの場合」などという限定句を適宜差し挟んで、読んでいただけるとありがたい。
また当然「過程尊重」のマイナス面もあるので、それらの是正は行うべきである。ただ自分の思考・行動が「過程尊重」から来ていることを理解しないと、マイナス面も見えないと思う。
最後にもう一度言いたいこと。
(稲の苗を植える女性、早乙女。豊作を祈る神聖な儀式。おそらく早乙女の役割を終え笑顔で記念写真を撮ってもらった若い女性たち。戦中か戦前の写真と思われる。出典:ウィキメディア・コモンズ)
欧米人に「日本人は働き過ぎ」などと言われたくない。「日本人は人生の楽しみ方を知らない」なんて言ってもらいたくない。
「仕事をすることが生きがいで人生そのもの」「仕事をきちんとすることにこそ、幸せがある」と思って何が悪い。
だからこそ「過程尊重」がきちんとできる働き方を、時代に合わせ新たに作り上げるべきなのである。そこに日本人の生きる道があると私は信じている。
(追記)浅学でなんの権威も権力も持たない私の単なる私論ではあるが、自分としてはかなり本質を突いていると思っている。いつか軽井沢を訪れる外国人に通訳ガイドをする時には、これら日本文化をしっかり伝えたい。
読んでいただきありがとうございます。
クリックして応援いただけるとうれしいです。
↓↓↓

にほんブログ村

にほんブログ村
posted by ロンド at 16:53|
Comment(0)
|
TrackBack(0)
|
人類学
2017年10月03日
「日本人はよく働きますね。なぜですか」「なぜ道具を大切にするのですか」と外国人に聞かれたら、どう答えるか。
こうした質問にどう答えるのか。通訳やガイドに携わり、翻訳業を始めてからも勉強会など様々な機会を通し日本人や外国人とディベートやディスカッションを行うことが多かった私には、答えを見つけておく必要があった。
「なぜよく働くのか」については、簡潔に言えば「日本人は働くのが好きだから」とか「労働を美徳と考えているから」などが答えになろう。
じゃあ「なぜ美徳と考えるのか」については、何年もの間、良い答えができなかった。だがいろいろ読みあさって、納得できる答えを見つけた。
それは「日本の四季」と「稲作」である。
四季がはっきりしている日本では、3ヶ月ごとにやるべきことが異なる。稲作を例に取ると、春は稲を育て田んぼを耕し田植え。夏は田んぼの水管理。秋は収穫、脱穀。冬は土作りや道具作り。年がら年中やることがある。欧州などの小麦作に比べ、稲作は手間がかかりやるべきことが多く、必然的に各過程をちゃんとやらないと米ができない。
(美しい稲穂)
その作業が2千年も続いたのだから、「リズム良く的確に働く」ことが日本人のDNAに染みついている。労働が生きがいでもある。
また研究者によると、稲作を行っている人々(主には東洋人)は、小麦作の人々(主には西洋人)より、「相互依存的」で「和を重んじる」傾向があるという。それは稲作が水の管理を含めその栽培・収穫には皆の力が必要だからだ。ところが小麦となるとそれほど共同作業は必要なく個人的な労働で作れるため、西洋は個人主義的考え方が進んだ、という。
「日本人が労働を美徳とする」のは、「食糧生産のため、生きるため、きちんとていねいに、皆で力を合わせ仕事をしてきた。それが皆を幸せにした。一人ではできないことも皆でやればできる達成感、満足感、連帯感。幸福感。だから働くことを正しい、美しいと思うようになった」。
とりあえずこのあたりで納得していた。
さて道具について、「日本人はなぜ道具を大事にするのか」という問い。イチロー選手がバットやグローブをきちんと手入れをし大切にする行為は、アメリカ人を感動させた。やはりそこまで道具を大事にするのは、日本独自であろう。
その答えは、「日本人は、何かをする場合に、その過程も大切にする。結果が出ればなんでもよい、というのではない。途中の経過も大切だと思っているのだ。だから道具を大切にする。」
さらに踏み込んで、「日本人は『針供養』というものをする。使用済みの針を捨てる前に『ご苦労さん』とねぎらう。どんな道具についても、同じようなことをする。これも道具を大切にすることの現れ」と説明できる。
日本人は「経過」を大切にする。目的地までの「道」を大切にすることは、私も気がついていた。だが根源的なところまで分析していないような気がしていた。
美化するわけではないが、日本人は「秩序良く、きちんと、協調性をもって働く勤労意欲の高い民族」だと言える。だから昔から品質の良いものを作っていた。
だが「なぜそうなのか」という長年答えられなかった根源的な疑問に、最近やっと答えがでた。
数ヶ月前オンライン書店で見つけてダウンロードして読んだ川田順造著「〈運ぶヒト〉の人類学」が答えをくれた。
同書は、ヒトは物をどうやって運んだのかを考察したもの。著者はわかりやすくするため世界を3つのモデル(「A=道具の脱人間化」「B = 道具の人間化」「C = 人間 の道具化」)にわけた。
簡単に言うと、Aは「誰がやっても同じ結果が出るようにす る」ことで、代表例は「機械化」を進めた⻄欧。Bは、「人の巧みさによって道具を 使いこなす」ことで、代表例は道具を巧みに使いこなしたり、巧みの技が確立された りしている日本。Cは、身体的特徴である⻑い手足を使って農作業をするアフリカの モシ族。
(頭に荷物を載せて運ぶインドの女性。川田氏によると、頭に物を乗せて運ぶ方法は、最も古い運搬法の一つと言う。約6万年まえにアフリカを出たホモ・サピエンスの一団はこの運搬方法を使っていただろう。)
著者は、日本では「道具の人間化」により「過程尊重」の傾向が生まれ、西洋での「道具の脱人間化」は「目的指向」となった、と言っている。
この「過程尊重」は、「日本人の労働意識」を十分説明できる考え方だと思った。
「道具の人間化」とは「道具を人間のように扱う」わけで、つまりは道具をちゃんと使いこなす、道具を大切にする。それは必然的に経過(プロセス)を重視する、ということになる。
この「過程尊重」は「四季・稲作」のアジア的特徴を共有するアジア人(特に東アジア)全体に見られるものではない。中国や韓国などよく働く優秀な人々ではあるが、彼らの作るものの品質や作り方や手順などを見ると、日本人ほど「過程尊重」の意識は強くないと思われる。
この日本人特有の思考・行動傾向が芽生えたのは、日本列島における稲作の開始より以前に遡るのではないだろうか。
研究者らによると「過程尊重」か「目的指向」か、などの違いの根源は、はるか昔数万年前に使われた石器の違いに遡るという。日本は細かい作業ができる小型の石器(チョッピングツール)が使われていた地域に入る。欧州などは大型の手斧風の石器(ハンドアックス)。作り方も使い方も異なるという。
日本は、「細かい作業」の伝統が1万年以上も前に定着し、それが引き継がれた、と私は思っている。世界で最古級の土器は日本でも発見されている。縄文土器の芸術性は世界的だ。手先が器用な人が日本列島には多く住んでいたのだろうし、またそういう伝統も代々継承されていったのだろう。
さらに征服民の侵略など、固有種族や文化を根こそぎ破壊するような出来事もほとんどなかったため、「結果だけ求められる」のではなく、時間や気持ちの猶予があって可能になる「経過もみてあげよう」という気分も保たれたのだろう(ちなみに大陸や朝鮮半島からやってきて後の弥生文化の成立に寄与した人々は、侵略的ではなく融和的移住だったことが発掘された人骨の分析からわかっている)。
つまり、今の日本人の「過程尊重」の思考・行動パターンは、少なくとも数千年の歴史がある、ということだ。全員ではないが多くの日本人はこのパターンにどっぷり浸かっている、と言っても過言ではない、と思う。
今生きている多くの日本人にとって、「なぜ仕事をするのか」「仕事をどう思っているのか」「仕事と人生とどういう関係にあると思っているのか」など、その基本は「過程尊重」にある、ということなのだ。
長くなったので、次回、これから日本人はどうあるべきか考えたいと思う。
読んでいただきありがとうございます。
クリックして応援いただけるとうれしいです。
↓↓↓

にほんブログ村

にほんブログ村
posted by ロンド at 17:19|
Comment(0)
|
TrackBack(0)
|
人類学
2017年08月30日
ビッグニュースは人によって違います。
ミサイル飛来! そりゃビッグニュースです。私たちの安全に係わってきますから。
天皇皇后両陛下軽井沢でご静養。毎年予定されていることですが、軽井沢住人にとってはうれしいニュースですね。
「追分の大部分が火砕流に覆われていた」、とか「追分キャベツ」は火山弾のようなもの、とか、この周辺に住んでいる人なら、「えっ、そうなの!?」くらいの反応はあるかもしれません。でも私にとっては心躍る発見でした。
金星の雲が金星自体の回転速度より早い速度で動いている(時速90キロ)ことがわかった。一部の科学ファンにはビッグニュースですが、大多数の一般市民にとっては普通の科学ニュースで終わってしまいそうです。
恐竜の子孫は鳥だった! けっこう古いニュースですが、当時は画期的な発見だったはず。映画「ジュラシック・パーク」でもそう言われていました。さらに同映画のシリーズでテーマとなった「恐竜はけっこう頭が良かった」(群で狩りをするヴェロキラプトルのこと)が今では事実として受け入れられています。今後は「ヴェロキラプトルは羽毛で覆われていた」という化石からの発見で、同映画でも「羽毛で羽根が生えたヴェロキラプトル」が登場するかもしれません。
映画「ジュラシック・パーク」の大ヒットで、かつては恐竜ファンも多かったと思いますが、今は下火ですかね。一般市民にとっては、あんまり興味を惹くものではなくなってしまいました。
さて、本当は人類の成り立ちに関連がある、ビッグニュースがあるのですが、どうもほとんどの人々にとっては「どうでもいい」ことになっているものがあります。
このニュースが報じられたのはもう数年前になります。「人類はネアンデルタール人のDNAを持っていた」というもの。つまり、ホモ・サピエンスとネアンデルタールは交配していた、ということ。しかも、ネアンデルタールのDNAを持っているのは、約6万年前に人類発祥の地アフリカを出たホモ・サピエンスのグループの子孫たち。アフリカに残ったホモ・サピエンスの子孫には、ネアンデルタールのDNAはありません(彼らが純粋のホモ・サピエンスということ)。
これはすごいニュースなのですが、私もあなたもネアンデルタール人が祖先にいる、ということですよ。
だったら何なの。それを知ったからといって、私の風貌が変わるのか、私の生活が楽しくなるのか、私の収入が増えるのか、私の病気が治るのか、と言われても、困りますが・・・
ネアンデルタール人なんて知らない、という方のために、短く人類学の事実を解説します。
今の人類は学名を「ホモ・サピエンス」。ネアンデルタール人は「ホモ・ネアンデルターレンシス」。ネアンデルタール人は約40万年前には発生していたようですが、ホモ・サピエンスの出現は約20万年前です。何から今の私たちの容貌をしたホモ・サピエンスが生まれたか、わかっていません。
ホモ・ネアンデルターレンシスとホモ・サピエンスは系統的に別の人類。ネアンデルタール人がホモ・サピエンスになったわけではない。以前は、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスは交配できなかった、あるいは、交配しなかった、と思われていました。
ちなみに、日本語でいう「原人」「旧人」「新人」に相当する英語は存在しません。この3つのくくりは今では不適切で誤解を生むと思います。
かつてネアンデルタール人は、野蛮で愚かな「旧人」で、知恵に勝る「新人」との生存競争に負け滅んだ、とか言われていたものですが、今では「背広着て街を歩いていたら、たぶんわからないかもしれない」と言われるようになりました。大出世です。
(背広を着たらこんな感じ、という想像写真。けっこう渋いおじさんになっている)[Photo by courtesy of H. Neumann / Neanderthal Museum]
以前は、ホモ・サピエンスがかっこよくてネアンデルタールは醜い風貌と考えられていましたが、事実は逆だったかも。
ネアンデルタール人の方が「金髪、碧眼、筋肉質で今風の彫りの深い美男美女」であって、ホモ・サピエンスの男女がぜひ懇意になりたかった。
あるいは「ネオテニー(幼形成熟。子供のころの特徴が大人になっても残る現象)が特長だった可能性を示唆されているホモ・サピエンスの男女が、子供っぽく見え、ネアンデルタール人に「チャイドル」視されたのかもしれません。
数はホモ・サピエンスのほうが多かったので、必然的にネアンデルタール人のほうがホモ・サピエンスに吸収されていって、純粋なネアンデルタール人が絶滅した、という見方もできるそうです。
遺伝子的には、身体的特徴(肌の色、髪など)やある種の遺伝的疾患、免疫系などもネアンデルタール人由来のものがあると言われています。
恐竜は鳥となって現代に生き残っている。同じように、ネアンデルタールは今、私たちの中で生き続けているのです。
(今は風になって追分の森を飛び回っている、かつて飼っていたわが家の文鳥「チョン」。この体型、けっこう「ヴェロキラプトル」に似ているんです。)
これは私にとって驚天動地のビッグニュースでした。
だからといって、私たちの体が突然マッチョになるわけではなく、私たちの生活が突然豊かになるわけでもないけれど! でも、「多くの様々な人々(人類)が係わって今の私たちがいる」ということを知れば心が豊かになりませんか。
読んでいただきありがとうございます。
クリックして応援いただけるとうれしいです。
↓↓↓

にほんブログ村

にほんブログ村
posted by ロンド at 21:29|
Comment(0)
|
TrackBack(0)
|
人類学
プロフィール
ブログネームは、ロンド。フリーの翻訳者(日英)。自宅にてiMac を駆って仕事。 2013年に東京の多摩ニュータウンから軽井沢の追分に移住。 同居人は、妻とトイプードルのリュウ。 リュウは、運動不足のロンドを散歩に連れ出すことで、健康管理に貢献。 御影用水温水路の風景に惹かれて、「軽井沢に住むなら追分」となった。
