2019年04月25日

天皇陛下はエンペラー


今上天皇の御退位を間近に控え、10連休という超大型連休の開始とともに、日本はお祝いムードに突入する。

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(天皇皇后両陛下の「思い出のテニスコート」。赤いバスは旧軽を走る観光巡回バス。イヌ同乗可。今年の大型連休、軽井沢も例年以上の混雑が予想されている。)

世界中で、「日本の天皇」「日本の元号」が話題になっているが、珍しいからだろう。

通訳ガイドになるための勉強では、「日本事象」も学んだ。例えば、神社と寺院の違い、日本仏教の特徴、生け花や茶道の基本的事項などなど。ガイド教本にて英語で得た知識は多かった。

日本の天皇は英語では Emperorと呼ばれている。それなのに日本は Empire of Japan (日本帝国)ではない。Kingdom of Japan でもない。制度上、「立憲君主国(constitutional monarchy)」である。

なぜ天皇陛下は King ではないのか、なぜ「天皇」という称号は世界でも日本だけなのか。

とても不思議だった。

こうした「天皇」にまつわる諸事情を外国人に説明しても、わかってもらうのは大変だったし、日本人でさえ、よくわからない人はいた。

そうして、いろいろな歴史の本を読み、整理して考えると「天皇」= Emperor の構図がよくわかるようになった。

日本は東アジアに位置しているため、中国文明を含めた東アジア全体の歴史を通して考える必要がある。

学校の歴史で習ったことだが、紀元前から中国大陸には高度な文明を誇る「王朝」があり、「帝」(皇帝)がいた。その配下にあった周辺諸国には「王」がいて、正式に「王」と宣言するには「皇帝」の承認が必要だった。

それは「倭」と呼ばれていた日本も同じ。かつてはたくさんの「王」がいたが、邪馬台国に統一され、近畿に大和朝廷が成立した(4〜5世紀ごろ)。君主は、大和言葉で「大王(おおきみ)」と呼ばれていたが、中国からすれば「王」にすぎなかった。だが次第に独自の文化を確立していった日本は、中国大陸と海を隔て適度に離れていたこともあって、「中国大陸の王朝から独立しよう」と思い立ち、「天皇」という独自(元は漢語だが)の称号を使い始め、7世紀には形式上「独立」した。

つまり、日本の天皇は、「皇帝」の下にいる「王」ではなく、「皇帝」と対等だが、「皇帝」という称号を使うのははばかられるため、独自に「天皇」という称号を使った、というわけである。

さて、ヨーロッパに目を向けてみると、西洋文化では、近代の民主体制以前の君主としては、英語を例にすれば、king と emperor しかない。

king はもともと「村長」や「親分」が、グループの拡大とともに地域の支配者となったもの(これは万国共通だと思う)。emperor は、ローマ帝国の皇帝 imperator が変形したもので、imperator とは、「軍隊の指揮官」のような意味。言ってみれば日本の「将軍」のような称号だった。

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(ローマに立つユリウス・カエサルの像。正式には彼の姪の息子であるオクタビアヌスが初代皇帝だが、実質的にはカエサルが「元祖」ローマ皇帝とみなされている。後年のドイツ皇帝やロシア皇帝の称号は、「カエサル」の変形である「カイザー」「ツァー」をそれぞれ採用していることからも、それがわかる。)(Photo by Leomudde via Wikimedia Commons)

ローマ皇帝は強く、どんな地方の王様もかなわなかった。西ローマ帝国が滅んでも、その象徴的権威は続き、ドイツ人(の祖先)が興した形式的な「神聖ローマ帝国」の興隆もあって、king の上に立つのが emperor ということになった。

東西それぞれの「王」「皇帝」の成り立ちは異なるが、19世紀に日本が世界へデビューしたとき、当時まだ存在していた清朝との関係性や世界情勢も鑑み、日本の天皇は Emperor と呼ぶのが妥当だということになったのだろう。

ただ、king の語源にある kin は「家族、一族」の意味があり、emperor は「命令する人」の意味があることを考えると、歴史的意義や上下関係抜きに言えば、日本の皇室は「血縁」を元にした指導者だったので king のほうが適切ではないか、と私は思っている。

実態は別にして、Emperor と呼ばれる君主は現在では日本の天皇陛下のみではないだろうか。今の世の中、当然ながら他国の王様たちと上下の違いがあるわけではない。ただ、現存する王家としては世界で最も長い歴史(少なくとも1500年)を持つと言われており、その歴史の重みは世界的に見て敬意に値すると思う。

元号の使用は面倒、という考え方もある。確かに西暦だけ使う方が楽だし、元号は英語にするとき、各元号をそれぞれ西暦に直さなければならない(仕事上、私はいつもやっているが)。

だが、元号も文化である。人は効率と食糧と科学的事実だけで生きられるものではない。

神社で参拝したり、正月を祝ったり、お盆で墓参りに行ったり、日本が世襲的元首である天皇を国の象徴としていたり、食事の時「いただきます」「ごちそうさま」を言ったり、北枕を避けたり、古い建物を保存したり、草花を愛でたり、ペットをかわいがったり、これらすべては人が生活する上で自然に生まれた、あるいは必要であると思い作り上げた文化である。これはどの国も同じ。

面倒で意味がない、ということで捨ててしまえば、おそらく人ではなくなると思う。

諸外国には元号がない。それはそういう文化がない、あるいはその伝統を持っていた王朝を自分たちで廃止したからだろう。日本には日本の歴史があり元号を保持している。そのことは、ありのままに受け入れても良いと思う。

2019年5月1日をもって新しい天皇に即位される徳仁親王(浩宮様)。私の通信社勤務時代、報道カメラマンとして浩宮様のお出かけに同行した同僚たちが皆、「とても気さくな方」と話していた。常に国民のことを考え、親しく人々に話しかけられる今上天皇陛下(明仁様)と皇后陛下(美智子様)の血筋を引いていることは確かで、令和の時代になっても、人々の心とともにある天皇陛下となられるにちがいない。


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posted by ロンド at 16:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史

2018年07月05日

幻の歴史遺産


ヨーロッパには世界歴史遺産があちこちにある。添乗員として行ったことのあるローマなど街全体が歴史遺産みたいなものだ。基本的に石造りなので、耐用年数が長いことや、火災で崩れ去ることも少ない。歴史的建物の保存意識が高いこともあるが、それだけでなく、「戦災で破壊されなかった」という理由も大きい。
 
私が通訳ガイドの勉強をしているとき、新聞に載った「空襲を受けた都市」の図を見て体が震えた。東京大空襲は知っていたが、日本中ほとんどの都市が、アメリカ軍の空襲を受けていたのだ。あのときから、私の戦争に対する考え方が変わった。「どうしてそこまでするか」と同時に「どうしてそこまでさせたか」という思いが交差した。
 
私の生まれ故郷甲府も終戦1ヶ月ほど前の1945年7月6日深夜、空襲を受けた。母によると、「B29が富士山の向こうから飛んできた」のだそうだ。空襲の中、祖母に「もう水を飲めなくなるかもしれないから」と言われ、ドブの水を飲んだという。幸い母たちは逃げ込んだ寺が焼失を免れたので助かった。多くの人が命を落としたこの空襲で、市内の8割近くが焼失し、当然昔ながらの街並みもすべて灰燼に帰した。
 
世界遺産に登録された萩を含む、昔の街並みが残っている尾道、津和野、松阪などの諸都市は、どれも空襲を受けなかった街である。爆撃された都市は、軍事的または戦略的に重要だったから、と一般には言われている。
 
しかし甲府には、大きな軍需工場もない一地方都市だったのに空襲を受けたのはなぜか。「重要な都市はすべて焼き尽くしたから、焼いても意味がない中小都市を空襲した。それに東京に近かったから」という衝撃的事実がわかったのはつい最近のこと。
 
幸いながら、攻める側にとって重要性もなく山間部にあるかつての宿場町などは、被害はなかった。そうした昔ながらの街並みが残っている宿場町は、長野県にもいくつかある。軽井沢から車で30分くらいで行ける東御市の「海野宿」。山中を通る中山道の「奈良井宿」「妻籠宿」「馬籠宿」(現在は岐阜県に編入)は有名である。
 
私が住む追分には、追分宿があったが、わずかに残った宿場町の面影を大切にしている。今の追分宿には、昔の佇まいに加えて、別荘地という独特の魅力がある。

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(昔の雰囲気が残っている追分宿の一角)
 
追分宿は、鉄道の開通で中山道が廃れて、町も廃れてしまった。同様に、追分宿の隣の沓掛宿(今の中軽井沢)も同じ運命。軽井沢宿だけは、アレクサンダー・クロフト・ショー宣教師のおかげでリゾートの中心地として繁栄を続けられたが、海野宿のように昔の街並みが残ったわけではない。

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(タイムトラベル感あふれる海野宿。軽井沢から近いのでたまに行きたくなる。)
 
海野宿は、北国街道は廃れても、町としては養蚕で繁栄を保つことができたため、江戸時代と明治時代の建物が残った。

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(海野宿。写真中央に見える「類焼防止のため妻壁を張り出させたもの」が「卯建(うだつ)」。「うだつがあがらない」のは、卯建を作るだけの金銭的余裕がないこと、そこから、出世できない凡庸な人のことを言うようになった。)
 
妻籠宿は、貧しさ故建て替えができず、昔の建物が残ったという。10年以上前、妻籠宿で江戸時代の旅籠だった旅館に泊まったことがある。なかなか寝付けなかった。天井が低く、壁も薄い。ああ「黄門様ご一行」はこういう宿に泊まったんだな、としみじみ思った(もちろん本物の水戸黄門様は全国行脚などしなかったが)。
 
昔の街並みが残ったのは、戦災を受けなかったということだけでなく、明治維新以降にそれなりの繁栄を続けられたこと、貧しくて建て替えられなかったこと、早い時期に歴史的街並み保存の重要性に住民が気づいたこと、など様々な理由があった。
 
ただ戦災がなくとも、古き良き時代の面影は、時代の流れでどんどん消えていったことだろう。さらに現代では「スクラップ・アンド・ビルド」(壊しては建てる)が建てて売る側の常識的な戦略になってしまっているため、古い物を壊すことに罪悪感など感じなくなっている。
 
だが、もしあれほどひどい空襲を受けなければ、日本には今よりはもっとたくさん、もっと古い建築物が残ったはずである。
 
山中や地方に残る宿場町の歴史的価値は、ユニバーサルでもある。奈良井宿などがある「木曽路」は、外国人観光客にも人気のルートだ。
 
アメリカ軍があえて爆撃を避けたと言われている、奈良や京都の世界レベルの歴史的価値は言わずもがなである。

もっと昔の街並みがあちこちに残っていたら、日本人の建物に対する見方も変わっていただろう。もし、今の京都や奈良で見られるような歴史的建造物が、日本中の都市に残っていたとしたら、「発展だ、開発だ、さあ壊せ」と簡単に思っただろうか。ヨーロッパのように戦後早くから歴史的建物の重要性に気づき、建築的価値に目覚めたかもしれない。

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(世界遺産、奈良の法隆寺。7世紀に建てられた世界最古の木造建造物)
  
歴史に「if」は禁物だが、もし日本を焼土にさせないような知恵が当時の日本にあったならば、この国にはもっと多くの「世界歴史遺産」があったことだろう。 例えば、戦前の甲府では普通の景色だった「黒い塀と白壁の土蔵が立ち並ぶ城下町の風景」は、今となっては幻の歴史遺産である。

国破れて街もなし。


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posted by ロンド at 16:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史

2018年04月26日

我が心のイギリス


イギリスは魅力的な国であり多彩な国である。シェークスピアを好きな人もいるだろう。シャーロック・ホームズの謎解きも日本人好みだ。ジェームズ・ボンドは時代を超えて活躍し続けている。

日本にとっては共通点も多く、親近感を持っている人も多いだろう。私も添乗員として一度だけ行ったことがある。

そのとき滞在したロンドンのホテルのロビーで、ミス・ワールドの美女たちに遭遇した(たぶん同じホテルに泊まっていた)。思わず、Wow, beautiful! と口に出したら、Thank you! と輝くような笑顔で返された。添乗という接客業に向いておらず失敗が多かった短い添乗員時代の数少ない思い出の一つである。

行ったのは一度だけだが、イギリス関連の本はたくさん読んだ。イギリス人ともいろいろ話した。そして「イギリス」という言葉一つでは語りきれない文化、言語、人々の多層性に惹かれた。

イギリスの歴史に登場する英雄は多いが、最初の英雄といえば円卓の騎士で有名なアーサー王である。

一般に知られているアーサー王伝説は、中世以降に創作されたフィクション。アーサー、その妻グイネビア、魔術師マーリンなど、恋あり魔術ありの英雄譚である。

だが私が興味あるのは、フィクションではなく、ファクトのほうのアーサーである。

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(クライブ・オーウェンがアーサー、キアラ・ナイトレイがグイネビアを演じた2004年の映画「キング・アーサー」は、フィクションではなくファクトを重視して描かれた作品。舞台は5世紀。もちろん聖剣エクスカリバーも魔女も魔術師も出てこない。)
(テレビ画面より)

以前、Arthur's Britain という本を読んだことがある。それによると、アーサーには実在のモデルがいた。5〜6世紀ごろ、ケルト人とローマ人のハーフとして、ブリタニアと呼ばれていたイギリスにて、侵略者のゲルマン人たちと戦った軍事的指導者だった、という(諸説あり)。

そのアーサーは、誰のために戦ったのか。

すでに西ローマ帝国は滅んでいるが、ローマの威光はまだ残っていたから、残存のローマ人と土着のケルト人との共同社会のようなものがあって、その社会を守るため侵略者のサクソン人と戦ったのだろう。

つまりアーサーは「国家」ではなく「家族」を守るために戦った。

そのアーサーは何語を話したのか。公用語や公文書などはまだラテン語だったろうが、民衆との会話にはケルト語を使ったはず。だからバイリンガルだったと思われる。

アーサーの実在性を疑う学者もいるが、私は実在したと思う。偉大な指導者であり戦士だったからこそ、人々の記憶に残り、フィクションの王になったのだと。

アーサーがサクソン人を破った「ベイドンの戦」が行われた「ベイドン山(Badon Hill)」にぜひ行ってみたい。ただ、正確な場所は、いくつか候補はあるがわからないそうだ。

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(Badon Hill の候補地に挙げられている Badbury Rings と呼ばれる丘。鉄器時代からの遺跡がある。場所はイングランド南西部にあるドーセット州。)
(Wikimedia Commons)

さて、時は下り「イングランド」の時代になる。

ブリテン島に侵入したゲルマン民族はやがてこの島に住み着いた。主な定住種族は、アングル人、サクソン人、ジュート人。この3部族は、しだいに合体し、総称して「アングロサクソン」と呼ばれるようになる。

彼らの言葉は「古英語(Old English)」と呼ばれ、今の英語の祖語にあたる。YouTube で「古英語」を聞いてみたが、とてもワイルドな言葉に聞こえる。It’s all Greek to me. (ちんぷんかんぷん)だ。

彼らがブリテン島に建てた国々は総称して「七王国」と呼ばれている。そこから「イングランド王国」ができる。10世紀ごろである。

本当の意味での「アングロサクソン人たちの王国イングランド」は、この時代のイングランドだ。

だがそれは11世紀に消えてしまった。有名な「ノルマン・コンクエスト」(ノルマン人による征服)(1066年)のためである。

大陸のノルマンディからウィリアムがイングランド王位を奪いに来た。アングロサクソンの最後の王ハロルドは孤軍奮闘、しかし善戦虚しく敗れてしまった。

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(ハロルドの顔を刻んだ銀貨。1066年に鋳造されたものという。)
(Wikimedia Commons)

新たなイングランド王となったウィリアム始めとする支配層は、もともとゲルマン民族の「ノルマン人」と呼ばれる部族で、いわゆる「ヴァイキング」であったが、フランスに住み着いたため、すっかりフランス化してしまい、フランス語しか話せなかった。

こうしてイングランドにはフランス語が入り込み、「英語」が大きく変化した。たくさんのフランス語(ラテン語)が入り、文法も簡略化され、今の英語になっていった。文法が簡単になったのは、私のような外国人学習者からすればうれしいことである。

もしノルマン人による征服がなければ、英語はもっとオランダ語やドイツ語に近かった。だから名詞も「男性名詞、女性名詞、中性名詞」なんていうめんどくさいものが残り、動詞の変化も、今のドイツ語のようにやたらと語尾変化していたはずだ。

征服王ウィリアムの王朝は存続し、イングランドが現在につながる「イギリス(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)」になっていく。現英国王室の直接の祖先は、このウィリアムである。

どうも私は、ノルマン・コンクエスト以降のイギリスにはさほど興味がないようだ。古典のシェークスピア作品は、映画で見る方が楽だし、名作シャーロック・ホームズも、現在アメリカで放送中の探偵ドラマでルーシー・リューが女性版ワトソンを演じている「エレメンタリー ホームズ & ワトソン in NY」のほうが好きだ。

どちらかといえば、いにしえ人に思いをはせる、というか、過去があって今の自分がある、と考えるのが好きなのだろう。歴史の知識が必須な通訳ガイドを目指して勉強した、というのも背景にある。
 
いつかイギリスに行ったら、ブリティッシュ・イングリッシュを話してみたい(現実的には、せいぜい「ジャパニーズ・ブリティッシュ・イングリッシュ」だろうが・・・)。

イギリスでは、ケルト人、ローマ人、ゲルマン人、様々な人々がやってきて、住み、戦い、生き、社会を作り歴史を形作ってきた。戦いに生きたアーサーやハロルドたちのイギリスが、「我が心のイギリス(England on my mind)」である。


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posted by ロンド at 17:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史
プロフィール
ブログネームは、ロンド。フリーの翻訳者(日英)。自宅にてiMac を駆って仕事。 2013年に東京の多摩ニュータウンから軽井沢の追分に移住。 同居人は、妻とトイプードルのリュウ。 リュウは、運動不足のロンドを散歩に連れ出すことで、健康管理に貢献。 御影用水温水路の風景に惹かれて、「軽井沢に住むなら追分」となった。