日本は八百万の神々が住まう国。日本全国あちこちに、いろいろな神様がいる。経済大国、文化大国で、これほど神様がたくさんいる国は非常にめずらしいと思うが、日本人自身そのことを意識している人はあまり多くないと思う。
日本の在来宗教は神道。これはアニミズムの一種。アニミズム(animism)とは、人類が初めて感じた宗教的な感覚で、自然を畏れ敬い、自然現象を始め万物に霊魂が宿るとする。必然的に神様(精霊)がたくさんいることになるので、アニミズムは多神教に分類される。animism の語源は、ラテン語の「生命」「魂」などを意味する「anima(アニマ)」に -ism を付けたもの。

(雷。日本神話では「いかづちのかみ」。北欧神話では「トール Thor」と呼ばれている。映画「マイティー・ソー」の「ソー」だが、「ソー」はどうかな、と思った。「トール」ではいけなかったのだろうか。)
どんな世界観かというと、誤解を恐れずあえてアニメ的(アニメーションも anima を語源とする)に言えば、「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」だろう。神様、妖精、妖怪、生霊、死霊なんでもありだ。私は「千と千尋」のような世界は、ひょっとして本当にあるのでは、と思っている。
本来、地球上は神様(精霊)でいっぱいだった。でも、その神様たちは今では「一神教」、つまりこの宇宙を創始した創造主たる唯一神の宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)によって、肩身の狭い思いをしている。
聖書やコーランでは、多神教はあまりよく書かれていない。生きるのが困難な時代は、人の生贄を求めたり、非道な儀式があったり、必ずしも「素朴」ではなかったから、その時代の多神教は一神教徒たちにより、よろしくないものとみなされたのだろう。
一神教および人間であるお釈迦様が説かれた仏教のような世界宗教は、確かに、その高度な智恵と教義と倫理観と世界観により、多くの人々を救い導いてきた。
だが私は最近、既成宗教に疲れを感じている人々が増えてきているのではないか、と思うようになった。
9.11などのどうしようもなく悲惨な事件や抗いようのない大災害のあとは、日本で「千の風」として知られている "Do not stand at my grave and weep”(私のお墓のまえに立って泣かないで)が朗読されるという。この詩は20世紀初頭にアメリカ人女性が作ったものと言われている。時代から当然一神教徒であったはずだ。
ところが、「私は千の風。私は雪。私は雨。私は畑。私は太陽の光。私はお墓にいない」という詩は、まさしくアニミズム。それが残された人々の心を楽にしてくれる。「千の風」は、人間の心の奥底に残されたアニミズムの部分と共鳴するのではないか。
だが「千の風」は一神教の考えとは相容れないので、キリスト教から煙たがれているし、仏教からも好ましく思われていない、と聞く。
既存宗教の多くは、人の存在理由、生命の意味、生きることの意義、死、正義、復讐、裁き、死後の世界など、人間とこの世界についてのあらゆることを決めている。それは人々が生か死かの限界状況にあるとき、人々を勇気づけ力強く導けるのだが、比較的平和な状況では、逆に重荷になってくるのではないだろうか。
私にとっても今の既存仏教はとても重荷だ。よく言われるように「葬式仏教」と化しているし、四十九日、一周忌、三回忌、などなどそのたびに法要を行い、お布施やお香典(お金)が必要になる。戒名なんて本当に必要か。私は、お釈迦様は信じているし、その意味では Buddhist だが、そもそも現在の日本の仏教は、お釈迦様が直接説かれたものではない。
私は次男なので、自分の墓が必要だ。どの宗派にするのか。 継承者がいない我が家の墓はどうなるのか。さらに長女である妻の両親の墓はどうするのか。
普通の墓地は、継承者がいないと30年で合葬墓に移される規則があるという。継承者がいない仏は、かつて「無縁仏」と呼ばれた。何と冷たい言い方であるか。
私は正直、どうしたらよいかまったくわからなかった。
だがこうした心の重みは「千の風」を聞いたとき、一気に軽くなった。そうか、死者は風になってここにいて、いつでも会える。お墓で魂を縛る必要はないんだ、と。さらに物理的問題は、以前住んでいた多摩ニュータウンのそばにあった「桜葬」が解決してくれた。
桜葬は、桜を墓標とする樹木葬墓地で、「永代の直接埋葬」が特徴の新しい墓制。

(桜葬のとある区画。桜の木が区画の中央に立っている。)
今、私たちの桜葬区画には、妻の両親が眠っている。私たちの場所もある。私たちの死後は、何の費用もいらない。永遠にそのまま、土に還る。そして私たちも桜葬に眠ることになる。「アニミズム式の葬式」というのはないので、私たちの場合は無宗教で葬礼をし、もちろん戒名もない。
原初のアニミズムは、自由だ。今の我が家の庭には、妻の両親も風にのってやってくる。義父母が愛した文鳥チロ、私たち夫婦がかわいがった文鳥のチョンとピーちゃんも、いつもどこかでさえずっている。そして皆、風になったり光になったり雲になったり、いつも会いたいときにはそこにいる。
それが私たちのアニミズムである。世界はアニマでいっぱいなのだ。

(千の風が吹く追分の庭)
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