2020年05月08日

コロナ禍と日本人


コロナ禍で世界中が苦しんでいる。そんな中、諸外国に比べ日本は新型コロナウイルスの猛威を何とか押さえ込んでいるように見える。

コロナ対策で評価を得ている国はいくつもある。日本は感染者数も死者数も比較的少ないにもかかわらず、政治家も行政も講じられた対策もそれほど国際的関心を呼んでいない。

元通訳ガイドの私としては、コロナ禍に対しある視点が浮かんでくる。もし日本が大規模医療崩壊を起こさず、何とか新型コロナウイルス感染を収束させることができたとしたら、その最大の貢献要因は、日本の文化や風土に係わる以下のようなことではないか(なお個々の要因については、専門家などもすでに言及はしている)。

(1) おとなしく話す

世界には多くの言語がある。外国語では、英語、ドイツ語、アラビア語など、子音が多く、しかも強く発声される言語が多いように思える。さらに「ハ」「カ」など喉を使う音もある。それだけでなく、話し方にも特徴があり、大きな声で強く発声する。文化的に自己主張意欲が強い国も多い。その結果「口角泡を飛ばして話す」ことになる。つまりツバが飛び、その中にウイルスが入っていたら、相手に届いてしまう。

日本はどうだろう。日本語は母音の多い言語である。ほとんどの単語が母音で終わり、子音はあまり強く発音されない。つまり唇も喉もあまり使われない。文化的にも、日常の会話において強く自己主張する習慣はないので、相対的に話し方がおとなしく、ツバもあまり飛ばない。

さらに付け加えれば、諸外国に比べ対面時の「相互の身体的接触」が少ない。ハグ、キス、握手など親しい間柄でも普通はしない。

この「発音」と「話し方」さらに「振る舞い」のおとなしさは、「飛沫によるウイルスの感染を広げない」ことにつながるのではないだろうか。

(2) 靴を脱いで家に入る

日本の家庭では「室内は土足ではない」。室内は土足ダメ、という国は意外と多いのだが、日本ほど徹底している国は少ないだろう。しかも日本には「靴を脱ぐ専用の場所=玄関」がある。

アメリカでも靴を脱ぐ家が増えてきているそうだが、それでも客にはそこまでは要求しない家庭は多いという。

玄関で靴を脱ぐのはなぜか。日本では高湿や多雨という気象条件もあって伝統的に「高床式住居」に住み続けてきた。つまり「地面(土間)より高いところに居室の床がある」家だ。

欧米の麦作と異なり、日本は米作が中心で、田に水を引くため足裏に土や泥が付きやすい。土間より高いところにある居室の床をわざわざ泥で汚すなど考えられなかったのだろう。必然的に「履き物」を脱いだ。

靴を脱げば、靴裏に付いた汚れが室内に入らない。つまり「屋外の土、埃、泥、さらにウイルスも室内に入らない」ということになる。

(3) 内着に着替える

「土足厳禁住居」なので、外着と内着の違いも出てくる。一端、家の中に入ったら、もう屋外と同じではいられない。着る物もリラックスしたい。きれいでいたい。そして内着を着ることになる。

もちろん、現代日本でも内着と外着の区別のない家庭もあるだろうし、人にもよるだろう。だが、区別している家庭のほうが多いと思う。

内着に着替えるということは、必然的に「外からもらってきた汚れ(バイ菌やウイルス)を室内にばらまかない」ことを意味する。

(4) 風呂に入る

open hot spa 2.png
(自然の景色を借景とする露天風呂。天にも昇る心地といっても言いすぎではない。)

日本人は風呂好きだ。温泉も日本中にある。日本語の「風呂に入る」と英語の「take a bath」はちょっと異なる。日本の風呂は「湯船」があって「座ると肩まで浸る」ほど湯が入っていて、しかも湯温は「40度」前後。

シャワーでも清潔さは保てるだろうが、風呂に入るのは、それ以上の効能がある。温泉に行って、「心身ともすっきりして生まれ変わった」気持ちになる日本人は多いはずだ。私も個人的に、一日の労働で疲弊し、喉や鼻など不快感(「まさかコロナ?」の不安)もありながら、風呂に入る。するとどうだろう、疲れも体調不良も吹き飛び、「心身とも健康になった」と感じる。気のせい、ではない。あれだけ高温の湯に体を浸せば(長時間入りすぎない限り)、新陳代謝も活発になり、ちょっとした体調不良は吹き飛ぶだろう。精神的な意味でも効果はある。

日本人の風呂好きはいつからか。仏教伝来以降、仏教では「体を清潔に保つ」ため僧侶は沐浴を行っていた。私の生まれ育った場所の隣町が「湯村(甲府市)」で、湯村温泉があり、武田信玄の時代から「兵士の傷を癒す」ため使われていた。そして風呂文化が一般庶民にも広がったのは江戸時代後期。

風呂に入る習慣が広がったのは、水道の普及など技術の向上という要因もあったが、湿度が高いので皆さっぱりしたかった、水が豊富にあった、火山国で湯が豊富にあった、という風土的背景があったからこそ、と思う。

(5) きれいにしたい

(2)から(4)までの行為を支えているのは、何と言っても「高い清潔観念」だろう。その根源は「神道」に象徴される数千年続いている土着の宗教観念だと思う。例えば「禊ぎ(みそぎ)」「祓え(はらえ)」「清め」などの神道的観念。もちろん精神的・宗教的な意味なのだが、それを行うため実際に物理的・身体的にも「清潔にする」行いをする。

神社に行けば、かならず「手水舎(ちょうずや)」があって、参拝する前に手を洗うことになっている。

jinja.jpg
(拝殿と鳥居と注連縄。鳥居の起源は「高床式住居」と同じ照葉樹林帯にあるという。)

そうした観念は私たち日本人の生活の中に根付いていて、何か不幸があると「清めたい」と思い、さらに観念的なことだけでなく無意識ながら「物理的な汚れ」についても「清めたい」と思うようになっていた。それが近代の技術革新や衛生観念の進歩により、実際の行為として現れてきている。

例えば、欧米を始め諸外国と違う日本の特徴的衛生行為といえば、すぐマスクを付ける、よく手を洗う、よく風呂に入る、街並みがきれい、ウォシュレットを使う、トイレと浴室が別、などが頭に浮かぶ。他国にはこういう行為や習慣がない、というわけではないが、日本はこうしたことを大多数がきちんと行っている。

上記に挙げた(1)から(5)まではどれも単独で「新型コロナウイルスの防止効果が大きい」わけではないが、「それなりの効果」はあるはずだ。その「それなり」が集まった末の効果が、諸外国と比べ、「新型コロナの猛威をなんとか防げている」ことにつながっているのではないか。

もちろん、まだ日本におけるコロナ禍もさらに悪化する可能性はあるが、あくまでも「もしこのまま何とか収束する」と仮定したら、その最大の貢献要因は上記の(1)〜(5)だと私は思う。

近い将来コロナ禍が世界中で終わって、日本に来た外国の人々にコロナ禍との関連で何か話すことがあるとしたら、私は元通訳ガイドとして上記のようなことを説明したい。


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posted by ロンド at 17:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化

2019年06月22日

個性なんて


「個性」は必要だろうか。「個性のある○○」とか「個性豊かな○○」というようなものは、やはり持つべきだろうか。

現実的には、遺伝子や容姿や行動や思想など各個人すべて異なり、それぞれ個性はある。だが、世間で言われている「個性」とは、そういう個性ではないはず。もっとユニークな、人とは違う大きな特徴のようなものを意味しているはずだ。

ひところ「個性が大切」という風潮があり、行政も盛んに「個性のある○○」を強調していた。音楽界でも「世界でたった一つの・・・」という歌が流行り、「No. 1にならなくても、すでに私たちはそれぞれオンリーワンだ」というメッセージが流されていた。大ヒット曲だから、好きな人も多いだろう。

だが、非常に個性のある政治家やアーティストや芸能人が「個性」を叫んでも、私に対しては説得力はない。鳥が地を這う犬に「空を飛んでみたら」と言うようなものである。「飛べりゃあ、飛ぶよ」と噛みつきたくなる。

Liue and ducks 1.jpg
(カルガモ一家と飛べない犬。軽井沢追分の御影用水温水路にて。 プードルは水鳥を獲るために改良された狩猟犬。ただ我が家のワンコは水鳥を前にしても、その本能は目覚めないらしい。目覚めてもらっても困るが・・・。)

通信社勤務時代に東京の代々木公園で踊っている「竹の子族」と言われる若者たちを取材したことがある。もう最盛期は過ぎていたが、それでも奇抜な衣装を着た若者たちがたくさん集まり、一心不乱に踊っていた。

何人かにインタビューをした。答えはだいたい同じ。彼らは不良少年少女ではない、どちらかといえば真面目な若者たちである。「楽しいから踊っている」「これが自分たちのスタイル、何か反抗したいわけではない」という、ユニークではあるが優等生的な発言だと思った。

この取材で感じたことは、「彼らは特定のグループに属している人々であって、本当に個性的なわけではない」だった。本当に個性的なのは、最初に奇抜な衣装を着て踊り始めた人々であり、それ以降の人々は「フォロワー」である。

人は、「個性的(オンリーワン)」になりたくて、なろうと思っているが、実際は「個性的な人を真似ているだけ」なのかもしれない。

そもそも、私の経験上、オンリーワンになるよりナンバーワンになるほうが簡単だった。No. 1というのはいろいろある。遊びでも駆けっこでもゲームでも学業でも、友達間での No. 1、町内の No. 1、クラスの No. 1など様々。私もそういう意味では何度か No. 1 になったことがある。

だがオンリーワンというのはむずかしい。オンリーワンは非常に主観的、恣意的だからだ。自分の過去を振り返ってみると、オンリーワンの場合には恥ずかしいことばかりだった(例えば、予防注射で倒れたのは、学年でおれだけ、とか)。「もともと特別な only one」も私は自信ない。

驚いたことに、最近「個性的」と言われるのを嫌う若者が多いらしい。「人と違う」と思われるのが嫌なのだという。

Japanese crowd.jpg
(個性ある人ない人行き交う交差点。)

個性的でありたいと思ったり、人と違うと思われたくないと思ったり、いったい何なんだろう。日本人にとって「個性」は鬼門なのに違いない。

英語を通して外国人と交流したり、外国についての文献を読んだりしたが、一般的には確かに外国人は日本人よりも個性的ではある。だが、それ以上に「他人を判断(評価)しない(私は私、あなたはあなた)」という彼らの考え方が気に入っていた。

英語のドラマなどを見ていると、Don’t judge me. という台詞をよく聞く。つまり「私のことをあれこれ言うな、だめとかいいとか言うな」という意味である。元々西洋には個人主義的な考え方があったからなのか、あるいは最後の審判は神が下す、という宗教的思想が背景にあるのかもしれない。

ひるがえって日本はどうだろうか。日常生活や社会生活において細々とした規則があって、どうも窮屈である。それは「おもてなし」の悪い面ではないだろうか。気を遣うということは、「他人にあれこれ言う」「皆と違うことをするな」ということにも通じる。

本当に大切なのは、「個人をそのまま認めること」ではないだろうか。その人が個性があろうとなかろうと、ただの凡人であろうとなかろうと、どうでもよい。ただただその人がその人であることを否定せず、その人の考えや行動をとやかく評価せず、ありのまま受け入れることのほうが、はるかに大切ではないのか。

もちろん最低限のルールは守らなければならない。それは生物の種の存続に不可欠なことである。他人を傷付けたり、決まりを守らなかったり、そうしたことが良くないのは、倫理でも法律でも自己都合でもない。種の存続を脅かすからやってはいけないのである。

例えば群で獲物を追う捕食動物(狼とか人とか)が、バラバラな行動をしたら、獲物は獲れず、群全体が食糧不足で死んでしまう。だから群のメンバーはルールを守って共同で行動する。人間は知能がちょっと発達してしまったので、それを「倫理」や「宗教」や「法律」と名付けかっこつけただけである。

そういうルールも必要な最低限でいい。そのうえで、個人の生き様を許容する。すると「公園デビュー」(もう死語に近いそうだが)も「仲間はずれ」も「いじめ」もなくなるだろう。

自分たちと違うからといって、他人を無視したり、あれこれ指図したり指摘したりしない。そのうえで、必要があれば団結する。

今の社会は何か逆のことをやっているような気がする。自己都合のためのルールで人を縛り、本当に必要なことは避ける。外圧がなければ自己改革できない会社はうんざりするほど見ているはずだ。

自分は世界で一つだけのオンリーワン、なんてどうでもよい。only one でなくて、one of them でもいい。自分は自分として認めてくれればいいのである。

そういう社会になれば、なんと楽であることか、と思う。


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posted by ロンド at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化

2019年02月28日

「2位じゃダメなんでしょうか」はダメですか

「2位じゃダメなんでしょうか」という質問を聞いたのは、2009年の事業仕分け。質問したのは蓮舫議員。日本ではこの質問をした蓮舫議員に対し「何て質問をするんだ」と否定的に感じた人が多かったようだ。
 
質問者の意図や当時の状況は別にして、この質問自体私には「普通」にしか聞こえなかった。
 
外国だったら、何百億ものお金(国民の血税)がかかるプロジェクトの是非を問う際には、こういう質問は普通に聞かれるものではないだろうか。もっと辛辣な質問だって出てくるはずだ。
 
例えば、1位を狙うには1000億かかる、と言われたら、お金を出すほうは、「そこまで出せないけど2位でもそれなりの成果になるのではないか」「それだったら800億でどうか」「無理しないで2位でいいじゃないか、800億でできるはず」とか、こうしたいろいろなことを訊くことはまったく問題ないはず。
 
「私たちの研究のため、お金をください(しかも血税から)」と言っているのだから、「なぜお金が必要なのか、何のために必要なのか」ありったけのデータと理論を持って説明するのが筋というものだろう。
 
この質問が当時の雰囲気から、どちらかといえば否定的な印象を持たれたのは、おそらく「質問」というのが「物事を明らかにする手段」というより「尋問」に近いものと捉える文化的背景があるのではないか、と思った。
  
「なぜ」と聞かれると「非難されている」と感じることはないだろうか。
 
「質問」する技術は、コミュニケーションにおいて非常に重要だと、英語に携わっていると強く実感する。外国人との英会話では why を中心に、what, how, which, when のオンパレードである。それがあるからこそ、会話がおもしろくなる。
 
たとえば、「私はコーヒーが好きです」というと, Why do you like it? と聞く、だけではない。Why not tea? 「お茶じゃだめですか」とか、 Why do you prefer coffee to tea? 「お茶ではなくコーヒーなのはなぜ」とか、日本語だったら「天の邪鬼」に聞こえるような質問もすることはある。実はこういう質問に答えるのが大好きな外国人は多い。自己主張は自己表現であり、それをしあうことで相互理解が深まる。そこに、「異民族交流」の歴史を持つ諸外国と「阿吽の呼吸」の日本との、コミュニケーション手法の違いが反映されているのかもしれない。
 
質問内容は質問者の意見や意思を必ずしも表明しているわけではない。むしろ会話をよりおもしろく有意義にするためにするもの。そういうことを、私は英語の会話から、また英語でのディベートから学んだ。 

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(ディベートはこんな感じで、賛成・反対に分かれて行われる。日本でも「ディベート甲子園」と呼ばれる、中学・高校ディベート選手権が全国規模で行われている。)
 
私がディベートのことを知ったのは、日本にディベート教育を広げようと尽力している松本道弘氏の著書からだ。また直接、氏の指導のもとでもディベートを学んだ。
 
ディベートとは、誤解されているようだが、「ああ言えばこう言う」という詭弁を学ぶところではなく、「テーマを徹底して考える」ためのもので、「賛成と反対」の両側から考え、互いに質疑応答し、結論を導き出すもの。
 
自分の意図や意見とは関係なく、賛成側や反対側になり、考える。それはとても優れた思考法であり検討法だと思う。口下手でぼんやりしている私にとって、物事を多角的に、特に自分の意見とは逆から見ることは、とてもよい訓練になった。
 
実は、「なぜ2位じゃダメなのか」はディベートにとってはおいしい質問なのだ。「待ってました」とばかり、「1位じゃなきゃだめな理由はこれだ」と嬉々として説明する。そのためにあらゆるデータを集め、根拠を考え、わかりやすく説明できるよう事前に準備し、想定問答をしておく。それがディベートの原則。だから「2位じゃダメか」と訊かれれば、しめしめ、とうれしくなるのだ。
 
本当に相手を論破したいのであれば、「答えがイエスかノーかになる質問」をする。
 
アメリカの法廷ドラマでは、Are you ....., are you not? と弁護士がたたみかけてくる。これが恐ろしい。きっとアメリカの弁護士だったら、「2位じゃダメ」のような事業仕分けであれば、あっというまに「要求額1000億」が「800億」に減らされ、承認させられてしまうだろう。

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(米テレビドラマ The Practice 「ザ・プラクティス ボストン弁護士ファイル」は本格的法廷ドラマで、私もかつてよく見ていた(放映は 1997〜2004)。非常に英語の勉強になった。)(写真:Wikimedia Commons)
 
 英語では devil's advocate という言葉がある。わざと反対意見を言う役割のことで、キリスト教に由来するのだが、今では play devil's advocate といえば、ディベートにおいて、また普通の会話でも「議論を深める(会話を盛り上げる)ため、わざと反対意見を言う」ことを意味する。
 
現代のイスラエルでは、「10番目の男」という規則がある。9人が同じ意見だったら、10番目の人は必ず逆の観点から検討しなければならない。前世紀から続くイスラエルの苦難は、「希望的観測」(皆が「そんなことは起きないだろう」と思っていたら、起きてしまった)ゆえ生じたものだ、という反省からできあがった規則だという。
 
ただ、どこの国の人であっても根掘り葉掘り聞かれたくない人はいるし、「物は言いよう」だから言い方には気をつけなければいけない、と口下手だが口が滑りやすい私は自分に言い聞かせている。
 
互いに反論したり言い返したりすることが、普通の会話の中で普通の心理状態で行えたら、きっと「胸を割って語り合えた」という充実感が得られるだろうし、論理的思考も鍛えられると思うが、それは日本ではダメですか。


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posted by ロンド at 17:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化
プロフィール
ブログネームは、ロンド。 2013年に東京の多摩ニュータウンから軽井沢の追分に移住。今年還暦に。 同居人は、妻とトイプードルのリュウ。 ロンドは、フリーの翻訳者(日英)。自宅にてiMac を駆って仕事。 リュウ(13歳)は、運動不足のロンドを散歩に連れ出すことで、健康管理に貢献。 御影用水温水路の風景に惹かれて、「軽井沢に住むなら追分」となった。