2020年07月01日
楽し都、恋の都、夢のパラダイスよ、花の東京
藤山一郎歌う「東京ラプソディ」は、今でもまさしく東京を正しく形容している、はずだが、今回のコロナ禍で「移住したい」と思う人たちが増えているという。
大都市圏では、人が多すぎて感染のリスクが大きいことがわかり、「やむを得ずテレワーク」した結果、家族と過ごす時間の大切さを実感した、ということだろう。
移住候補地として関東近隣各地が挙げられている。
気候の暖かいところがいい、海の見えるところがいい、風光明媚なところがいい。好みは様々だ。
だが、東京が「花の東京」ではなく「酷な東京」に感じられたのは、「コロナ禍」のせいだけなのか。
7年前、我が家が東京の多摩ニュータウンから軽井沢に移住した最大の要因は、3.11、東日本大震災である。
ちなみに自宅で実務翻訳に携わる私の専門は、土木・建築およびそこから派生する河川、道路、災害など。仕事を通じ、「自然災害」「災害による被害」「地震と建物の関係」などの(一般公開されている)知識が身についた。
だから、どんな地震が東京に来そうか、その時の震度はどのくらいか、そういう地震が来たらどんな建物がどんな被害を受けるのか、そういう予測データは持っている。
読者を怖がらせるつもりはないが、はっきり言わせてもらうと「震度6強で1981年以前に建てられた旧耐震基準での建物は、かなりの被害を受ける」(つまり、半壊以上)ことがわかっている。
国や東京都が想定している直下型、海溝型、活断層型の地震では、広範囲で震度6強以上の強震に襲われる。旧耐震の建物はまだまだ多いのだ。
では新築で被害を受けないのならいいのか。3.11で数百万の「帰宅困難者」が出た。もし交通インフラが長期間遮断されたら、どう帰宅するのか、さらに誰がどうやって食糧を都民に届けるのか。
それだけではない。大規模地震が起きたら、富士山も噴火する可能性が高いと言われている。マグマや火砕流は東京に届かなくても、火山灰は風向きから言って関東方面に流れることが多い(1707年の宝永噴火では江戸に降った灰は厚さ最低2センチと言われている)。1センチでも積もったら、どうなるか。すでにシミュレーションで結果は出ている。火山灰の微粉で肺や目に被害を受け、電気も水も止まり、食糧も枯渇し、逃げることさえできない1400万人はどうなるのだろうか。
東海地震、南海トラフ地震などのプレート型地震では、津波が必ず起きる。「海の見える景勝地が移住先候補」なら、震度6以上の揺れとそれに続く津波を覚悟しておく必要がある。
そんなリスクがあっても気にしない、「花の東京」で生きたい、という人は別にして、本気で「移住したい」と思っている人は、自分で住む場所を選べるのだから、どんな場所なら本当に安心安全なのか考えることが重要ではないか。
地方都市ならどこでも良いわけではない。災害大国日本では、活断層、土砂災害、津波など災害リスクはどこでもある。
じゃあ、津波が来ない内陸で、活断層がないところ、洪水や土砂災害がなさそうなところはどこか(例えば各地の活断層図やハザードマップなど調べればわかる)。
私が住む軽井沢の追分は、そういうところだ。軽井沢を含む佐久地域は、活断層が存在しない(と言われているし、過去に大規模直下型地震が起きた記録もない)(「ちょうどよい軽井沢」)。
どんな大規模地震が起きても、佐久地域は最大震度5強程度と予測されている(例えば「南海トラフ被害予想」)。5強では、通常被害はそれほど多くない。けっこう平坦な地形が多いので、川沿い、崖沿い、急斜面地など避ければ、洪水や土砂災害に対しても安心できる。
環境も良い。私は「安心して犬と散歩ができる街」が理想の居住環境だと思っていて、その点では多摩ニュータウンはまさに理想だった。車道も歩道も広く、街路樹が植えられ、あちこちに緑生い茂る公園があり、芝生で犬が自由に散歩できる。
普通の田舎も緑は多い。だがそれは居住区とは隔絶された「森」「山」であり、気軽に犬と散歩できるような「歩道」「公園」は少ない(最初からそういうふうに作られていない)。
ところが軽井沢は違った。旧軽井沢を始め、市街地や住宅地は森に囲まれている。「別荘地」として整備された森だから、密生せず、道が通り、車はあまり通らず、ゆっくり散歩できる。
コロナ禍で「外出自粛」もなんのその。人が少ないので、いつでも散歩でき、素晴らしい「森林浴」ができる。
(誰もいない冬の散歩道。追分の御影用水温水路)
問題は仕事があるかどうか。我が家周辺は「テレワーク」自営業が多い。私のように、パソコンとネット環境があればどこでも仕事ができる人たちだ。
軽井沢を含めた佐久地域は、「手に職」の人にとっては働きやすい場所である。
まず「食」の職人といえば、シェフ、パティシエ、ブーランジェ(パン職人)。軽井沢は「おいしいものを食べてもらう」という精神が伝統になっていて、個人(家族)経営の自宅兼店舗というお店も多い。特にパンがおいしい。ケーキも、佐久市は日本三大ケーキの街の一つに数えられているほど、おいしいお店が多い(他の二つは神戸と自由が丘)(「そうだ 佐久、行こう。」)。
土建業も盛んだ。彼らは「繊細な技能」「複雑な計算能力」「優れた想像力」が必要な技能者である。バックホーを操り、木を切り、家を建て、家具を作り、「すごい」の一言に尽きる。「災害後」に最も必要とされる職業の一つでもある。腕の良い大工さんは引っ張りだこである。
(木に登って枝を切る。実際はかなり揺れていた。人が乗った籠をクレーンで吊り上げて、切り落とすことが多いのだが、人が直接木に登って切る方がきれいな枝振りにできるという。)
リゾートなので観光業の仕事はもとより豊富だ。一流の仕事だってできる。中軽井沢の一温泉旅館を世界規模の観光企業に育てた星野リゾートの星野佳路さんは、コロナ渦の今、観光分野で新しい道を探るべく一人気を吐いている。
佐久地域だって、上田市など近隣諸都市を合わせれば人口30万超の商業圏になる。だから仕事もある。恋も夢もある。夫婦共働きであれば、東京で建てる家よりはるかに断熱性・気密性に優れた家を、90坪の土地に、東京よりはるかにお安い値段で建てることができる。
首都圏への通勤も可能。JR東日本によると2018年の新幹線通勤者は、軽井沢476人、佐久平952人となっている。
浅間山の噴火が怖い、という人は、私の記事(「予兆なし、浅間山噴火」「新浅間山ハザードマップの衝撃」)を読んでいただきたい。素人で恐縮だが、たぶん今後数十年は軽井沢にいても浅間山の噴火で避難というようなことにはならないと思う(過去の履歴や傾向を無視した突発的大変動があった場合は、ご容赦のほど)。
どうしても噴火が怖い人には、佐久をお勧めする。浅間山の噴火でもほとんど影響を受けない距離にあるし、もとより地震はない、川沿いを避ければ洪水のリスクはないし、平坦地が多いので土砂災害も少ない。
日本には、インフラも整備され教育・医療・子育て環境も良い景勝の地はたくさんあるだろう。だが、「災害に対しても安全」という場所は、意外と少ないのだ。
移住候補地として軽井沢(およびそこを含む佐久地域)をお勧めする理由を書かせていただいた。まったくの個人的意見だが、大都市を逃れ地方に移住したい方の参考になれば幸いである。
読んでいただきありがとうございます。

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軽井沢
2020年05月08日
コロナ禍で世界中が苦しんでいる。そんな中、諸外国に比べ日本は新型コロナウイルスの猛威を何とか押さえ込んでいるように見える。
コロナ対策で評価を得ている国はいくつもある。日本は感染者数も死者数も比較的少ないにもかかわらず、政治家も行政も講じられた対策もそれほど国際的関心を呼んでいない。
元通訳ガイドの私としては、コロナ禍に対しある視点が浮かんでくる。もし日本が大規模医療崩壊を起こさず、何とか新型コロナウイルス感染を収束させることができたとしたら、その最大の貢献要因は、日本の文化や風土に係わる以下のようなことではないか(なお個々の要因については、専門家などもすでに言及はしている)。
(1) おとなしく話す
世界には多くの言語がある。外国語では、英語、ドイツ語、アラビア語など、子音が多く、しかも強く発声される言語が多いように思える。さらに「ハ」「カ」など喉を使う音もある。それだけでなく、話し方にも特徴があり、大きな声で強く発声する。文化的に自己主張意欲が強い国も多い。その結果「口角泡を飛ばして話す」ことになる。つまりツバが飛び、その中にウイルスが入っていたら、相手に届いてしまう。
日本はどうだろう。日本語は母音の多い言語である。ほとんどの単語が母音で終わり、子音はあまり強く発音されない。つまり唇も喉もあまり使われない。文化的にも、日常の会話において強く自己主張する習慣はないので、相対的に話し方がおとなしく、ツバもあまり飛ばない。
さらに付け加えれば、諸外国に比べ対面時の「相互の身体的接触」が少ない。ハグ、キス、握手など親しい間柄でも普通はしない。
この「発音」と「話し方」さらに「振る舞い」のおとなしさは、「飛沫によるウイルスの感染を広げない」ことにつながるのではないだろうか。
(2) 靴を脱いで家に入る
日本の家庭では「室内は土足ではない」。室内は土足ダメ、という国は意外と多いのだが、日本ほど徹底している国は少ないだろう。しかも日本には「靴を脱ぐ専用の場所=玄関」がある。
アメリカでも靴を脱ぐ家が増えてきているそうだが、それでも客にはそこまでは要求しない家庭は多いという。
玄関で靴を脱ぐのはなぜか。日本では高湿や多雨という気象条件もあって伝統的に「高床式住居」に住み続けてきた。つまり「地面(土間)より高いところに居室の床がある」家だ。
欧米の麦作と異なり、日本は米作が中心で、田に水を引くため足裏に土や泥が付きやすい。土間より高いところにある居室の床をわざわざ泥で汚すなど考えられなかったのだろう。必然的に「履き物」を脱いだ。
靴を脱げば、靴裏に付いた汚れが室内に入らない。つまり「屋外の土、埃、泥、さらにウイルスも室内に入らない」ということになる。
(3) 内着に着替える
「土足厳禁住居」なので、外着と内着の違いも出てくる。一端、家の中に入ったら、もう屋外と同じではいられない。着る物もリラックスしたい。きれいでいたい。そして内着を着ることになる。
もちろん、現代日本でも内着と外着の区別のない家庭もあるだろうし、人にもよるだろう。だが、区別している家庭のほうが多いと思う。
内着に着替えるということは、必然的に「外からもらってきた汚れ(バイ菌やウイルス)を室内にばらまかない」ことを意味する。
(4) 風呂に入る
(自然の景色を借景とする露天風呂。天にも昇る心地といっても言いすぎではない。)
日本人は風呂好きだ。温泉も日本中にある。日本語の「風呂に入る」と英語の「take a bath」はちょっと異なる。日本の風呂は「湯船」があって「座ると肩まで浸る」ほど湯が入っていて、しかも湯温は「40度」前後。
シャワーでも清潔さは保てるだろうが、風呂に入るのは、それ以上の効能がある。温泉に行って、「心身ともすっきりして生まれ変わった」気持ちになる日本人は多いはずだ。私も個人的に、一日の労働で疲弊し、喉や鼻など不快感(「まさかコロナ?」の不安)もありながら、風呂に入る。するとどうだろう、疲れも体調不良も吹き飛び、「心身とも健康になった」と感じる。気のせい、ではない。あれだけ高温の湯に体を浸せば(長時間入りすぎない限り)、新陳代謝も活発になり、ちょっとした体調不良は吹き飛ぶだろう。精神的な意味でも効果はある。
日本人の風呂好きはいつからか。仏教伝来以降、仏教では「体を清潔に保つ」ため僧侶は沐浴を行っていた。私の生まれ育った場所の隣町が「湯村(甲府市)」で、湯村温泉があり、武田信玄の時代から「兵士の傷を癒す」ため使われていた。そして風呂文化が一般庶民にも広がったのは江戸時代後期。
風呂に入る習慣が広がったのは、水道の普及など技術の向上という要因もあったが、湿度が高いので皆さっぱりしたかった、水が豊富にあった、火山国で湯が豊富にあった、という風土的背景があったからこそ、と思う。
(5) きれいにしたい
(2)から(4)までの行為を支えているのは、何と言っても「高い清潔観念」だろう。その根源は「神道」に象徴される数千年続いている土着の宗教観念だと思う。例えば「禊ぎ(みそぎ)」「祓え(はらえ)」「清め」などの神道的観念。もちろん精神的・宗教的な意味なのだが、それを行うため実際に物理的・身体的にも「清潔にする」行いをする。
神社に行けば、かならず「手水舎(ちょうずや)」があって、参拝する前に手を洗うことになっている。
(拝殿と鳥居と注連縄。鳥居の起源は「高床式住居」と同じ照葉樹林帯にあるという。)
そうした観念は私たち日本人の生活の中に根付いていて、何か不幸があると「清めたい」と思い、さらに観念的なことだけでなく無意識ながら「物理的な汚れ」についても「清めたい」と思うようになっていた。それが近代の技術革新や衛生観念の進歩により、実際の行為として現れてきている。
例えば、欧米を始め諸外国と違う日本の特徴的衛生行為といえば、すぐマスクを付ける、よく手を洗う、よく風呂に入る、街並みがきれい、ウォシュレットを使う、トイレと浴室が別、などが頭に浮かぶ。他国にはこういう行為や習慣がない、というわけではないが、日本はこうしたことを大多数がきちんと行っている。
上記に挙げた(1)から(5)まではどれも単独で「新型コロナウイルスの防止効果が大きい」わけではないが、「それなりの効果」はあるはずだ。その「それなり」が集まった末の効果が、諸外国と比べ、「新型コロナの猛威をなんとか防げている」ことにつながっているのではないか。
もちろん、まだ日本におけるコロナ禍もさらに悪化する可能性はあるが、あくまでも「もしこのまま何とか収束する」と仮定したら、その最大の貢献要因は上記の(1)〜(5)だと私は思う。
近い将来コロナ禍が世界中で終わって、日本に来た外国の人々にコロナ禍との関連で何か話すことがあるとしたら、私は元通訳ガイドとして上記のようなことを説明したい。
読んでいただきありがとうございます。

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文化
2019年09月06日
このところずっと静かだったから油断していた。浅間山のことである。
先月、8月7日の夜、「22時08分頃、噴火が発生しました」という緊急メールが軽井沢町から届いた。気象庁の浅間山関連サイトで定期的に火山活動をチェックしていたが、最近は発表もなく、火山性地震も増えていたとは思わなかった。
「浅間山噴火」の速報は全国に流れ、NHKでもテロップが出た。だが、結局「小規模」だったため、報道としては沈静化した。
噴火が起きたのは曇りの夜間。噴火音もなく、軽井沢はちょうどバーベキューシーズンでもあり、屋外にいてテレビやパソコンを見ていなかった人たちは気づきもしなかったようだ。
気象庁のサイトで、浅間山の北側からウェブカメラで撮った、噴火直後の映像を見ることができた。確かにあれが晴天の昼間だったら、浅間山麓住人は、腰を抜かしたかもしれない。
(夜間の噴火だが、高感度カメラなのかはっきり噴煙が見えている。噴火の瞬間は赤熱した光も見えていた。ごくわずかな降灰は北側で観測されている。)
(気象庁鬼押監視カメラの映像より)
「予兆なしの噴火」は、専門家や私を含めた火山に関心のある人たちにとってみれば、かなりのショックだったと思う。2014年多くの犠牲者を出した御嶽山の水蒸気噴火は、少し前から火山性地震の増加が観測されていたから、予兆はあった。今回の浅間山噴火は、ほとんどまったくといっていいほど予兆はなかった。
つまり火山性地震は増えていなかった。もともとこの1年ほど火山性地震は少なく活動状態は低調だったし、8日の噴火以降も、2015年噴火とそれ以降の高活動期に比べると、かなりおとなしいままである。
そしてまた8月25日午後7時28分ごろ、「ごく小規模な噴火」が発生したと「こうほうかるいざわ」のメールサービスで連絡があった。これも明確な予兆はなかったようだ。
こうなると不安がむくむくと湧き上がってくるのではないだろうか。
「予兆なし」ということで、何かとんでもないことが起きているのではないか、起きそうなのではないか、大噴火が起きるのではないか、予想だにしない天変地異が起きるのではないか、と。
気象庁や地震学者などの専門家は、その不安に対し「それはありません」と断定的には言わない。「たぶん大変なことにはならないだろう」程度だが、確たるデータがなくては下手なことは言えないのが専門家である。そもそも科学万能ではないのだから、火山噴火の機構についてわからないことは多い。
そこで私も自分で調べてみることにした。素人だが仕事柄(翻訳業)火山や自然災害についての文献や論文を何度も読んでいるので、少しはわかるはずだ。
気象庁は今回の噴火を「水蒸気噴火」と判断している。2015年の浅間山の噴火も「水蒸気噴火」だった(降灰にマグマ由来成分が含まれていないので、そう言える)。
では水蒸気噴火はどうして起きるのか。ネットで見られる論文なども読んで、水蒸気噴火について改めて学んでみた。
かいつまんでいうと、「水蒸気噴火」だからマグマの噴出はない。あえて簡単に言えば、地下深くのマグマで地盤が高温になり、その高温体と「水」が接触して、爆発的蒸発を起こす。それが水蒸気噴火(水蒸気爆発)である。
例えば、ハワイ島キラウエア火山噴火ではマグマが地上を流れる。だがそこに雨や水がかかっても、爆発的蒸発は起きない。爆発的蒸発は水や水蒸気が「高圧下」にあることが条件。ただ地下深くの超高圧下だと、高温体と接触しても、押さえ付ける圧力のほうが大きいので爆発的蒸発は起きないという。
だから、水蒸気爆発は、それほど抑え込む力が大きくない、火口から比較的浅いところで起きる。そのため規模としては一般的にマグマ噴火よりは小さいという。
御嶽山やこれまでの浅間山の水蒸気噴火では、とりあえず火山性地震の増加などの変動が事前に起き(予兆があって)、それが引き金となり水(水蒸気)と高温体が接触し、噴火が起きた。
素人考えではあるが、今回のようにマグマが動くなど火山としての変化がなくても、地下に閉じ込められていた水(または水蒸気)と高温体とを隔てていた仕切りが、何らかの物理的要因でたまたま崩れ、両者が接触し、瞬間的に蒸発し爆発が起きる、ということもあるのではないか(当然そう考えている専門家もいるはず)。
例えば気圧の変化とか、大雨とか、中の水蒸気が動いたとか、あるいは単に時間が経過して土塊が崩れる(経年劣化)とか。
そういう噴火は、物理的に考えれば、比較的小規模だろう。だから、もとより火口周辺に近づくことはできない浅間山で今後そうした「予兆なしの水蒸気噴火」があっても、むやみに心配する必要も怖がる必要もないと思う。
だが、もし火口周辺に人がいたら、そんな小規模水蒸気噴火でも生命を脅かす一大事であることは最近の噴火事例からも明らかだ。
さて、そんな素人の私が考えるような現象が、他の火山で起こり得るか。起こり得る、といっても、過言ではないと思う。まあ素人だから、信頼はおけないかもしれないけれど。
個人的には、すべての火山は、火口周辺を立入禁止にしたほうがよいと思う。
霊峰富士。私は富士山を見ながら育った。富士山は遠くから見るものだ、という思いが小さいときからあった。
一度だけ、10歳くらいの頃だったろうか、富士スバルラインで5合目まで連れていってもらったことがある。そのとき感動などはなく、ただただショックだった。道路沿いの森林破壊のひどさ。あの倒木が続く光景は忘れられない。
場所によっては現在も自然破壊は続いているはず。だから世界遺産への登録は「自然遺産」ではなく「文化遺産」しかなかったのだ。
(冠雪した富士山の空撮。写真上側は実際には東南方向である。上側にある窪みは崩壊地である大沢崩れ。その縁に1707年宝永噴火の火口がある。スバルラインは写真下側に見えている。なお富士山が噴火した場合、風向きから火山灰は主に東京方面に向かうと予想されている。)
専門的に言えば、富士山の「予兆なし水蒸気噴火」は可能性としては低いらしい。そもそも巨大な山なので、マグマの熱は火口付近まで届いておらず、圧縮された水があっても高温体との接触は起きそうにない、という分析だ。
でも何が起きるかわからない、想定外の現代。どんな火山でも「予兆なしの水蒸気噴火」を恐れてもいいのではないだろうか。
100以上の火山がある日本列島。火山と生きていくためには、火口まで登るのではなく下から見て敬うほうが、火の神様も喜んでくれると思うが。
読んでいただきありがとうございます。

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浅間山
2019年08月16日
私はタバコは吸わない。Ich rauche nicht. だが、必ずしもドイツ語のせいというわけではない(「20カ国語ペラペラ」)。
私が十代のとき、タバコを吸うのは男性としては一般的だった。一人前の男になるための通過儀礼というような意味もあった。だから私が喫煙者になっても不思議ではなかった。
なんで吸わなかったか。原因の一つは、父にあった。国鉄職員だった父は、よく同僚たちを自宅に連れてきて、麻雀をやっていた。その部屋はタバコの煙だらけになる。私はそれが嫌でたまらなかった。だから麻雀もギャンブルもしない。一種のトラウマだろう。
(タバコ畑。タバコはイモやトマトやナスに近いナス科の植物で、実も付けるという。煙草が廃れても、タバコ自体はバイオ燃料として使えるそうだ。)
実は大人になってタバコを吸ったことはある。学生時代のアルバイトで窓拭きをやっている時、ビルの屋上で休憩中、遊びのつもりで同僚のタバコを吸わせてもらった。こともあろうか一気に肺まで吸ってしまった。
胃が痛いと胃の位置がわかる。恋をすると胸が苦しくてハートの位置がわかる(?)。私はタバコを吸った時二つの肺の位置がわかった。そのあと、苦しさのあまり5分くらいコンクリート床の上をのたうち回った。「一人前の男」への階段は一気に崩れた。
それ以降、何度かおふざけでタバコを吸ったことはあるが、肺に入れることはなかった。苦しくて肺まで吸い込むことはできなかった。ただの真似である。
あれは、英検の口頭試験のときだったか、順番を待つ私の前の人が急にそわそわし始め、ぱっと席を離れたと思ったら、一番近くの灰皿スタンドまで走って行き、タバコを吸った。「ああ、あの人はタバコの中毒なんだ。かわいそうに」と思った。いや、彼はただ緊張のあまり、タバコを吸って緊張をほぐそうとしただけなのかもしれない。そうだとしたら、うらやましい。喫煙者ではない私はどうやって緊張をといたら良いのだろうか。
ところが、最近知ったことだが、「タバコでストレス解消」というのは幻想で、生理学的に言うと、単に禁断症状が解消されるだけ、という。そうか、うらやましがる必要はなかったんだ。
私はタバコは吸わないが、個人的に吸うのは自由である。健康を害することがあってもそれは自分の選択であり自分の責任である。ただ、私が吸う空気をその煙で汚すことは勘弁してもらいたい。喫煙者は吸わない者にとってそれがどれほど苦痛なのかわからないのかもしれない。
友達同士で会うときも、喫煙者がいると胸が苦しい。ある時うれしいことにヘビースモーカーだった友人二人がピタリとタバコをやめた。肺か喉の疾患になり、入院こそしなかったが「こんな死ぬかと思うくらいの苦しい目に合うのならば(つまり息が苦しい)、タバコは二度と吸わない」と思ったそうだ。
また、かつての同僚は、タバコをやめたいと思ったが「禁煙してこんな苦しい目に合うのならば(つまり禁断症状)、禁煙は二度としない」と思ったそうだ。
タバコにまつわる苦しさも、人それぞれである。
最近の風潮はありがたい。今ほとんどタバコの煙に悩まされることはない。レストランなどの「テラス席はペットオーケー」は、「テラス席は喫煙オーケー」でもあることが多く、困惑することはあったが、軽井沢に来てからは、テラス席でも喫煙する人をほとんど見かけない。うれしい限りである。
かつては「歩きタバコ」する人も多く、そういう人の後ろを歩かざるを得ないときは、「ボクシング歩き」になった。パンチをよけるように、上半身を左右に振りながら煙をよけて歩いていた。そういえば似た動作は、温水路沿いを散歩する時にすることがある(「虫の名は。」)。
めっきり喫煙者を見かけなくなった昨今だが、恐ろしいことに「20世紀後半を舞台とする映画」では、喫煙者だらけなのだ。
先日テレビで見た映画「突入せよ! あさま山荘事件」(2002年)では、警察関係者ほぼ全員がチェーンスモーカーだった。見ているだけで胸が苦しくなった。幸い、途中で役所広司演じる佐々淳行が「今後この部屋は禁煙とする」と言ってくれたので、それからは少し胸がすっとした。
アメリカの映画でも似た傾向にあり、現代映画では、喫煙は「教育のない人、低階層の人」を象徴する演出で行われる感じがするが、過去を舞台とする映画では「エリート含め誰もが」喫煙者だった。
(タバコを吸う姿は絵になる。確かにこのような写真を見るとカッコ良く見える。だがそれも吸い込み・・いや刷り込みだろう。)
ただ個人的には、人に迷惑を掛けない限り「喫煙は個人の自由」と思っている。最近、芸能人(特に女優)で喫煙者だと批判的な記事が出たり、喫煙シーンがある映像作品が否定されるような風潮もある。私はそこまで否定するつもりはまったくない。「個人の自由」や「表現の自由」は尊重すべきである。
さて、タバコの起源だが、南米が原産地とされていて、最初はまじない師のような神がかる職業の人たちが使っていたらしい。やがて一般人にも広がり、さらにアメリカ大陸に押し寄せたヨーロッパ人たちにより全世界に蔓延していった。
しかしまあどうしてあんな苦しいものを吸おうと思ったのか、私にはわからない。皆「神がかり」したかったのだろうか。いやいや実際には「神がかり」ではなく「神あがり(かむあがり)*」を心配したほうが良い。
*「神あがり(かむあがり」とは、古語で「神として天に昇る=死ぬ」を意味する。喫煙者は、普通の空気を吸う人(私は「非喫煙者」という言葉が嫌いである)より、平均して10年ほど寿命が短いとされている。
読んでいただきありがとうございます。

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健康
プロフィール
ブログネームは、ロンド。フリーの翻訳者(日英)。自宅にてiMac を駆って仕事。 2013年に東京の多摩ニュータウンから軽井沢の追分に移住。 同居人は、妻とトイプードルのリュウ。 リュウは、運動不足のロンドを散歩に連れ出すことで、健康管理に貢献。 御影用水温水路の風景に惹かれて、「軽井沢に住むなら追分」となった。
