2019年07月18日
音楽と映画が合体すると、そこには不思議な世界が現れる。その代表がミュージカル映画。実話を元にしている「サウンド・オブ・ミュージック」(1965年)は不朽の名作。美しいオーストリアの山々を見渡す丘の上で The sound of music を歌うジュリー・アンドリュースが今も目に焼き付いている。
(ジュリー・アンドリュースが歌う「The Sound of Music」の出だし The hills are alive with the sound of music.「丘は音楽の調べで生き生きしている」は、どうしても The future is alive with the sound of music. 「未来は音楽の調べで生き生きしている」と聞こえてしまう。)(CDのジャケット写真)
ミュージカルでなくても、音楽が重要な役割を果たしている映画(音楽映画)もある。最近ではフレディ・マーキュリーの半生を描いた「ボヘミアン・ラプソディ」。エンディングの20分は、「ライブ・エイド」におけるクイーンの演奏。世界最高のライブパフォーマンスと言われているだけあって、その再演(演技)も圧巻だった。
日本では、ミュージカル嫌いで有名なのが多彩な才能を持つタモリ。普通にセリフを言いながら、それが突然歌になって踊り始めるところに違和感があるらしい。
2017年度アカデミー賞6部門をとったミュージカル映画「ラ・ラ・ランド」をビデオで見たとある人が、「渋滞している高速道路で、ドライバーたちが突然歌って踊り出したところで、見るのをやめた」とレビューに書いていた。あれで見るのをやめるのだったら、どんなミュージカルでも見続けるのはむずかしいだろう。
突然歌って踊り出す違和感。でも同じようなことは世界中で起きていた。それは「フラッシュモブ」。皆で示し合わせ、街中で突然歌い出したり踊り出したり演奏し出したりする行為だが、私たちの日常で、知らない人たちが突然歌って踊り出すこともあるのだから、映画のなかでそんなことがあってもおかしくないはず。
欧米発祥のミュージカル(舞台や映画)。その発想の原点はヨーロッパのオペラだろう。オペラは日本語にすると「歌劇」。それこそ全編が歌で占められている演劇芸術だ。だから欧米では、古典的オペラから近代のミュージカルへの発展は、スムーズに受け入れられたのだと思う。
日本にはオペラの文化はなかった。でもよく考えてみれば、日本の伝統演劇である歌舞伎も、「普通の演劇」ではない。独特のリズムを持ったせりふ回しで、踊りもある。それに「ユニークなことをする」の意味を持つ古語「かぶく」から生まれた「かぶき」は、「歌と舞の伎(わざ)」という漢字で表されているのだから、まさしく日本版「ミュージカル」ではないか。
西洋の「ミュージカル」は言ってみれば、「現代風西洋版歌舞伎」だと思えば良い。
「ミュージカル映画」や「音楽映画」は、私の考えでは基本的に「楽しく、明るく」がテーマだと思う。だからそういう明るい作品が多い。
本場のアメリカでは今も盛んにミュージカルや音楽映画が作られている。既述の 「ラ・ラ・ランド」、「ボヘミアン・ラプソディ」、「グレイテスト・ショーマン」 など、どれも鑑賞後は前向きな気持ちにさせてくれた。今年公開された実写版「アラジン」も大ヒットしているようで、見るのが楽しみだ。
日本のミュージカルは、舞台としては劇団四季の作品が有名で、観客も多い。ミュージカル映画も作られてはいるようだが、実は私は一つも見たことがない。音楽映画のほうが、しんみりしたり感動したりする作品は多い。多部未華子が「あやしい彼女」(2016年)で歌う「悲しくてやりきれない」は、うかつにもウルッと来てしまった。
私にとって心底「明るく楽しい」日本の「音楽映画」が2つある。
一つはクレージーキャッツ主演の映画、例えば1962年「ニッポン無責任時代」。同映画では植木等が「スーダラ節」「ハイそれまでョ」「無責任一代男」などの歌を歌う。私はこの映画を映画館で見たことはないが、歌は何度も聞いている。けっこう好きだった。「わかっちゃいるけどやめられない」なんていうのは、小学生ながら「そうなんだなぁ」と人生の摂理を悟ったつもりになっていた。
高度成長時代に「無責任」は逆行する精神だったが、日本中でヒットした。当時、日本人全員「責任感」に溢れ、輝かしい未来のため切磋琢磨していた。決して責任の重圧に押しつぶされそうになっていたのではなく、輝かしい未来のため喜んで責任を引き受けていたと思う。植木等の明るい「無責任を謳う歌」は、モーレツ日本人を怒らせるどころか、そのギャップゆえ大いに楽しませたようだ。
もう一つは加山雄三の「若大将シリーズ」である。東京の近代的街並み、高速道路、ヨットハーバー、空港など、当時最先端を行くインフラがよく登場する。大学の寮や老舗の和風料亭などは今でもあまり変わらない建物だろう。家電や自動車を始め、演出においてもレトロ感は否めないが、昭和30〜40年代の映画にしては、驚くほど今風である。それに何と言っても、時代を超えたメロディを持つ加山雄三の歌が底抜けにポジティブで、気持ちを明るくしてくれる。
(若大将シリーズは、毎回異なる人物の設定になっている。若大将始め主要登場人物の名前は同じなのだが、毎回新しい設定で話が進む。不思議な世界だ。)(DVDのジャケット写真)
当時、叔父が趣味でバンドをやっていて、ギターを弾きながらよく歌っていたのが「お嫁においで」など加山雄三の歌だった。「ああ、いい曲だな」と思った。「お嫁においで」も「君といつまでも」も聞いているだけで、恋をしている気分になった。結婚指輪は珊瑚で作ろう、と思っていた(まだ小学生だったが・・・)。
クレージーキャッツの映画や若大将の映画が上映されていたあの当時、毎日が楽しかった、未来は明るかった。高度成長時代だった。その時代に育った私も人並みの悩み苦しみを抱えてはいたが、世の中自体は明るかった。その「明るい未来」を私は生き、そしてそれは古き良き時代となった。さて、これからの未来はどうなのだろうか。
どんな時代になっても、「音楽+映画」は私に「明るい未来」を見せてほしいと願っている。
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音楽
2019年06月22日
「個性」は必要だろうか。「個性のある○○」とか「個性豊かな○○」というようなものは、やはり持つべきだろうか。
現実的には、遺伝子や容姿や行動や思想など各個人すべて異なり、それぞれ個性はある。だが、世間で言われている「個性」とは、そういう個性ではないはず。もっとユニークな、人とは違う大きな特徴のようなものを意味しているはずだ。
ひところ「個性が大切」という風潮があり、行政も盛んに「個性のある○○」を強調していた。音楽界でも「世界でたった一つの・・・」という歌が流行り、「No. 1にならなくても、すでに私たちはそれぞれオンリーワンだ」というメッセージが流されていた。大ヒット曲だから、好きな人も多いだろう。
だが、非常に個性のある政治家やアーティストや芸能人が「個性」を叫んでも、私に対しては説得力はない。鳥が地を這う犬に「空を飛んでみたら」と言うようなものである。「飛べりゃあ、飛ぶよ」と噛みつきたくなる。
(カルガモ一家と飛べない犬。軽井沢追分の御影用水温水路にて。 プードルは水鳥を獲るために改良された狩猟犬。ただ我が家のワンコは水鳥を前にしても、その本能は目覚めないらしい。目覚めてもらっても困るが・・・。)
通信社勤務時代に東京の代々木公園で踊っている「竹の子族」と言われる若者たちを取材したことがある。もう最盛期は過ぎていたが、それでも奇抜な衣装を着た若者たちがたくさん集まり、一心不乱に踊っていた。
何人かにインタビューをした。答えはだいたい同じ。彼らは不良少年少女ではない、どちらかといえば真面目な若者たちである。「楽しいから踊っている」「これが自分たちのスタイル、何か反抗したいわけではない」という、ユニークではあるが優等生的な発言だと思った。
この取材で感じたことは、「彼らは特定のグループに属している人々であって、本当に個性的なわけではない」だった。本当に個性的なのは、最初に奇抜な衣装を着て踊り始めた人々であり、それ以降の人々は「フォロワー」である。
人は、「個性的(オンリーワン)」になりたくて、なろうと思っているが、実際は「個性的な人を真似ているだけ」なのかもしれない。
そもそも、私の経験上、オンリーワンになるよりナンバーワンになるほうが簡単だった。No. 1というのはいろいろある。遊びでも駆けっこでもゲームでも学業でも、友達間での No. 1、町内の No. 1、クラスの No. 1など様々。私もそういう意味では何度か No. 1 になったことがある。
だがオンリーワンというのはむずかしい。オンリーワンは非常に主観的、恣意的だからだ。自分の過去を振り返ってみると、オンリーワンの場合には恥ずかしいことばかりだった(例えば、予防注射で倒れたのは、学年でおれだけ、とか)。「もともと特別な only one」も私は自信ない。
驚いたことに、最近「個性的」と言われるのを嫌う若者が多いらしい。「人と違う」と思われるのが嫌なのだという。
(個性ある人ない人行き交う交差点。)
個性的でありたいと思ったり、人と違うと思われたくないと思ったり、いったい何なんだろう。日本人にとって「個性」は鬼門なのに違いない。
英語を通して外国人と交流したり、外国についての文献を読んだりしたが、一般的には確かに外国人は日本人よりも個性的ではある。だが、それ以上に「他人を判断(評価)しない(私は私、あなたはあなた)」という彼らの考え方が気に入っていた。
英語のドラマなどを見ていると、Don’t judge me. という台詞をよく聞く。つまり「私のことをあれこれ言うな、だめとかいいとか言うな」という意味である。元々西洋には個人主義的な考え方があったからなのか、あるいは最後の審判は神が下す、という宗教的思想が背景にあるのかもしれない。
ひるがえって日本はどうだろうか。日常生活や社会生活において細々とした規則があって、どうも窮屈である。それは「おもてなし」の悪い面ではないだろうか。気を遣うということは、「他人にあれこれ言う」「皆と違うことをするな」ということにも通じる。
本当に大切なのは、「個人をそのまま認めること」ではないだろうか。その人が個性があろうとなかろうと、ただの凡人であろうとなかろうと、どうでもよい。ただただその人がその人であることを否定せず、その人の考えや行動をとやかく評価せず、ありのまま受け入れることのほうが、はるかに大切ではないのか。
もちろん最低限のルールは守らなければならない。それは生物の種の存続に不可欠なことである。他人を傷付けたり、決まりを守らなかったり、そうしたことが良くないのは、倫理でも法律でも自己都合でもない。種の存続を脅かすからやってはいけないのである。
例えば群で獲物を追う捕食動物(狼とか人とか)が、バラバラな行動をしたら、獲物は獲れず、群全体が食糧不足で死んでしまう。だから群のメンバーはルールを守って共同で行動する。人間は知能がちょっと発達してしまったので、それを「倫理」や「宗教」や「法律」と名付けかっこつけただけである。
そういうルールも必要な最低限でいい。そのうえで、個人の生き様を許容する。すると「公園デビュー」(もう死語に近いそうだが)も「仲間はずれ」も「いじめ」もなくなるだろう。
自分たちと違うからといって、他人を無視したり、あれこれ指図したり指摘したりしない。そのうえで、必要があれば団結する。
今の社会は何か逆のことをやっているような気がする。自己都合のためのルールで人を縛り、本当に必要なことは避ける。外圧がなければ自己改革できない会社はうんざりするほど見ているはずだ。
自分は世界で一つだけのオンリーワン、なんてどうでもよい。only one でなくて、one of them でもいい。自分は自分として認めてくれればいいのである。
そういう社会になれば、なんと楽であることか、と思う。
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文化
2019年06月09日
若いときはわからなかったことは多い。若いということは、エネルギーは溢れているが、智恵も思慮も辛抱も足りない。そこまで言わなくてもいいだろう、と思うが、自分の若い頃を思い返してみると、まさしくその通りなのだ。
娯楽作品としての「映画」にも、それは言える。例えば、若い頃見たときは「失望」だったが、今見ると「喝采」に変わる、という映画がある。以下「ネタバレ」もあるので、読む際はご注意のほどを。
まずは、日本のみならず世界中でディスコダンスを流行らせ、日本では「フィーバーする」という新語を造り出した歴史的映画「サタデー・ナイト・フィーバー」(1977)。ジョン・トラボルタの出世作。
(このポーズは全世界で流行った。確かにかっこいいダンスだ。私も当時流行っていたディスコに何度も行ったが、こんなポーズは恥ずかしくてできなかった。やってもジョン・トラボルタみたいにかっこよくならないし。)
正直言って、この映画嫌いだった。
トラボルタ演じた主人公トニーは、ディスコダンスはうまい、ハンサム(とは思わなかったが)でモテる。だが生活態度が自堕落で刹那的。
当時私は主人公トニーと似たような年齢で、社会人目前。さあどう生きる。何をしたい。何をすべき。そんな葛藤があった時期。自分は悩み苦しみ、それでも努力している。それなのに、トニーは天性のダンス技術にかまけて快楽を追い求めている。あんな風にはなりたくない。そう思っていた。
トニーはやがて自立した女性ステファニーとディスコで出会い、彼女のダンスに対する真剣さに触発され、ダンスに本気で取り組もうと決心する。そんな前向きな結末も、当時の私には目に入らなかった。
それから数十年。今は180度向こう側からこの映画を見られる。年を経てそれなりの知識と経験が少しは得られたからだろう。トニーの境遇がよくわかる。必ずしも幸せな家庭環境ではない。でもダンスの素質はある。最後は心を入れ替えたのだから、自分を信じて頑張れば、きっと成功する、と今ならエールを送れる。
続いては、「ロッキー5/最後のドラマ」(1990)。ご存知シルベスター・スタローンのロッキーシリーズ5作目。引退したロッキー、トレーナーとして若手を育成することに。だが手塩をかけて鍛え上げたトミーはロッキーを裏切り、移籍。好機を得てチャンピオンになるが、その態度の悪さゆえ観客からブーイングを受ける。「ロッキーを裏切った奴にチャンピオンの資格はない」と。
(シルベスター・スタローンは1946年生まれで今年72歳。ロッキーはいまだに「クリード」で健在。ジョン・ランボーは、今年公開予定の新作「Rambo: The Last Blood」でメキシコの麻薬ギャングと一戦交える。傭兵物語「エクスペンダブルズ」は4が制作中。がんばるなぁ。)
ロッキーを逆恨みしたトミーはロッキーにリングでの対決を申し込むが拒否され、その場でケンカになる。ストリートファイトで、ロッキーはトミーを倒す。
「なぜ再度リングに戻り堂々とトミーを倒さなかったのか」と私は憤った。テレビカメラで撮影され一般大衆も見ていたとはいえ、ストリートファイトなんて私闘のようなもの。相手も怒りに我を忘れていたのだし、そんなケンカみたいなもので勝っても意味ない、と非常に不満な終わり方だった。
当時私は30代で若かった。体力気力もまだあった観客として、ロッキーにも同じ事を求めた。「リングで戦うべき」、「ロッキーは不可能を可能にする英雄だ」と。
だが優れた俳優・監督・脚本家であるスタローンは「年を取る」ことの意味をよくわかっていた。老化で体力は落ちるが、智恵は付く。地の利を考え、相手の弱点を突き、体力を温存しながら倒せる機会を狙う。「正々堂々リングの上」で闘う必要はない。「名を捨てて実を取る」のも大人の智恵だ。
当時はまだそれがわからなかったが、今はスタローンの意図がよくわかる。年を取ったらそれなりの戦い方がある。経験と実績がある今、「プライド」にこだわったり頼ったりする必要はないのだ。それが年の功というものだろう。
最後は、最近の映画、「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」(2017)。実はこのエンディング、私はよくわかるが、一般観客にとって超不満だったようだ。納得いかない観客は、「ロッキー5」を見た若き日の私のような人たちだったに違いない、と思う。
スターウォーズ映画としては何十年ぶりにルーク・スカイウォーカーが登場した。演じたマーク・ハミルは当時20代、初々しかった。今は劇中のルークと同じく初老の男性。
(新スター・ウォーズ三部作の第二部「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」のポスター。最終話「The Rise of Skywalker」は今年末公開予定。邦題を「スカイウォーカー起つ」と訳してみた。この新作の予告編映像シーンは、何と「七人の侍」の有名なシーンと構図がそっくり。)
ルークは、悪の皇帝を倒し、実父であったダース・ベイダーを善に引き戻してから見送った後、ジェダイの騎士として後進の指導にあたった。その中には甥ベン(ハン・ソロとレイアの息子)も入っていたが、ベンは祖父のベイダーを尊敬し、暗黒面に墜ちてしまった(カイロ・レンと改名する)。ショックを受けたルークは姿を消す。だが、ついにレイア率いるレジスタンスたちを逃がすため、包囲するカイロ・レンの前に姿を現す。そして一対一の決闘に臨むが、レイアたちが脱出できたのを知ると、カイロ・レンの前から消える。隠棲していた別の星から幻影を飛ばしていたのだ。そして力を使い果たし、肉体を消滅させ、映画は終わる。
若い観客は、英雄であるルークに生身で戦い、カイロ・レンを倒して欲しかった。新シリーズの主人公レイを実際に指導し、一人前にして欲しかった。そしてその真逆の展開に不満を持った。
ルークと同じような年齢の私は彼がよく理解できる。指導者として失敗し、絶望し隠遁してしまったのも、理解できる(mid-life crisis)。そして、それでもなお年老いし者には、それなりの戦い方があるのだ。
これら映画のように、若いときは「どうして!」と思うことが年を経て腑に落ちることに、改めて気がつく。
今年で齢89歳のクリント・イーストウッド主演・監督作「運び屋」(2018)は、麻薬の運び屋となってしまった90歳の老人を描く映画。まだ見ていないが、この主人公に共感できることがあるとしたら、私が卒寿にならんとする頃だろうか。
私の人生において大きな喜びと感動と勇気と刺激を与え続けてくれているイーストウッドに習って、私もできる限り現役でいたい。
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映画・ドラマ
2019年05月24日
江戸時代の街道を行くのは危険がいっぱいだ。中山道のような「一日中、山道」では、山賊は出るは、野犬は出るは、熊は出るは、さらには今は絶滅してしまった狼は出るは、で命がけの道程であった。
というのが、数年前までの、私のイメージだった。
軽井沢に来て、我が家のすぐそばを中山道(旧中山道)が通っているのを知った。旧軽井沢銀座は、そもそも「軽井沢宿」であった。碓氷峠の向こう側、群馬県の坂本宿からは碓氷峠を越え、軽井沢宿に着くまで約8.5キロの「山道」は、確かに「一日中、山道」だったかもしれない。だが、道中数カ所休憩所もあって、日中であればそれほど危険ではなかったと思われる。
(旧中山道の、碓氷峠から群馬県側に下りる方向の道。Google Map には載っていないが、歩いて麓の坂本宿まで行ける。我が家のワンコは一応オオカミの子孫だが、誰にも怖がられない。)
中山道ではだいたい1〜2里ごとに宿が設けられていた。つまり、宿から宿までの距離は4キロから8キロくらい。歩いても、1〜2時間で踏破できる距離である。ましてや軽井沢宿から佐久市の八幡宿まではほぼ平地である。
危険がいっぱいの道中、というのは私の妄想だったのかもしれない。それほど江戸時代には交通インフラが整備されていたわけだ。
軽井沢宿から沓掛宿(今の中軽井沢)、追分宿、そこから南下し小田井宿(御代田町)、岩村田宿(佐久市)までは、追分住人である私にとっては日常的に通る道となっている。
(小田井宿。観光地化されていないが、意外と昔風の建物が残っている。海野宿と同じように中央に水路が走っていたという。)
かつて「宿場町」だったところは、観光に訪れる人も多く、歴史保全など行政の方針や住民たちの努力により、それなりに古い建物が残っていたり再現されていたりする。
実際にはどんなだったか。幸い日本には昔ながらの宿場町がいくつか残されている。妻籠や馬籠、さらに北国街道の海野宿を見れば、当時の街並みが容易に想像できる。今でもほぼ江戸時代の風景と変わらないはずだ。
だが、宿と宿のあいだの道はどうだったのだろう。道際に家は建っていたのだろうか。安藤広重などの街道を描いた浮世絵が描くのは、多くは宿であり、特徴的風景を背景に描いた旅人だったりして、街道がどんな様子だったのかはあまりわからない。
山中の街道は、想像が付く。以前箱根の山中を通る石畳の東海道を歩いたことがある。山道でも石畳が整備されていた。
中山道では、落合宿と馬籠宿との間、十曲峠には奇跡的に石畳の街道が残っている。写真で見る限り、けっこうちゃんとした石畳である(もちろん近代に補修され維持管理されているものだが)。
坂の山道で雨でも降ろうものなら、道がぬかるんで、進むに進めないだろう。大名行列だったら、なおのこと大変である。だから一部は石畳の舗装にしたようだ。だが、平地ならばきちんと管理すれば、人が歩くぶんには無舗装の土の路面で問題なかったのだろう。
宿が点在する佐久地域周辺だが、これまで行ったことがない岩村田宿から先の中山道を見てみたいと思い、仕事が休みの日、望月宿まで辿ってみることにした。気力はあるが、歩く体力も時間もないので、文明の利器(自動車)を借りた。
岩村田(いわむらだ)から佐久市街地を西に向かって進み、次の宿場町「塩名田(しおなだ)」へは約5キロの行程。宿場内は、あちこちに古式な構造の建物が見える。西端は千曲川となり、雨などで川止めとなると大名行列を始め一般の旅人も留め置かれるため、大いに賑わったという。
塩名田で一番昔の風景が残っているのは、千曲川に向かって下る道筋。今でも老舗の川魚料理店を始め数軒昔風の建物が建っている。
(左:塩名田宿の、千曲川に下るところの街並み。江戸時代にも橋は建てられたが、何度も流されたという。千曲川は今では想像できない暴れ川だった。)
(右:川魚料理店の玄関。ネコの置物、と思ったが、次の瞬間には消えていた。本物だった。)
川を渡ると1キロほどで八幡(やわた)宿に着く。当時の中山道はかなり往来があり、八幡は農産物等の集積所だったこともあり、宿が作られたという。
八幡宿から、山を一つ越えて、3キロほどで望月宿。ここは古い街並みが比較的多く残っていて、望月歴史民俗資料館もある。この宿は千曲川に注ぎ込む支流の鹿曲(かくま)川の左岸に位置している。最初は右岸に作られたが、洪水で流され、左岸に新たに建設されたという。
(左:望月宿の街並み)
(右:鹿曲川の流れ。向かって左側が宿場町。直接川面に出られるようになっている家もあった。)
追分からこの望月宿まで23キロ程度、車でまっすぐ来れば40分以内で着ける。江戸時代は、一所懸命歩けば、朝追分を出て夕方には望月に着けたかもしれない(千曲川がすぐ渡れれば)。実証してみたい気もするが、気持ちだけにしておこう。
中山道を通ってみると、不思議なことに宿場町ではないただの街道筋だったところにも、古風な家を見かける。典型的な特徴は、敷地を囲む背の低い白い土塀とよく剪定された松などの庭木。塀や建物自体はそれほど古いわけではない。おそらく、かなり昔から街道筋に居を構えていた住人が、伝統として同じ仕様の家屋を建て続けてきたのだろう。自家の歴史に対する誇りが感じられる。
さらに、中山道のような知られた街道ではない一見普通の舗装道でも、そうした「白い塀の家」に出くわすことがある。その近所を散歩してみると、道祖神があったり祠があったりする。近代に作られた舗装道のように見えたが、実際にはおそらく江戸時代から使われていた道なのだろう。
(御代田町のとある道。白塀の家や昔風の家が数軒集まっている一角がある。)
何気ない道で歴史を発見できるのも、近代化の波に完全に巻き込まれていない田舎の良さの一つである。
読んでいただきありがとうございます。

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郷土
プロフィール
ブログネームは、ロンド。フリーの翻訳者(日英)。自宅にてiMac を駆って仕事。 2013年に東京の多摩ニュータウンから軽井沢の追分に移住。 同居人は、妻とトイプードルのリュウ。 リュウは、運動不足のロンドを散歩に連れ出すことで、健康管理に貢献。 御影用水温水路の風景に惹かれて、「軽井沢に住むなら追分」となった。
