2019年05月10日
若い頃、ブランドには縁がなかった。名前もほとんど知らなかったし、興味もなかった。
ある時から仕事柄、ちょっとだけブランドに詳しくなった。それは添乗員をしていたとき。ツアー客の目的の一つが「海外のブランド品を安く買う」ことだったからだ。たいていどこに行っても「免税店」があり、安くブランド品が買える。衣類等では「グッチ」「ラルフ・ローレン」「ティファニー」「コーチ」「アルマーニ」「ルイ・ヴィトン」「エルメス」「ディオール」などなど。お酒では「シーバスリーガル」「ヘイグ」「レミーマルタン」などなど。
(Jana Segetti という、ペテルスブルク(ロシア)のブランドが開いたファッションショー。Jana Segetti という非ロシア的な名前は、前半が設立者関連の名前にちなみ、後半がハンガリー語の「境界」という意味とのこと。いかにも今風の無国籍的命名だ。)(Photo by Pixaboy)
それまで聞いたこともなかったブランド名をいろいろと知るようになった。もっとも「知る」だけで、自分で買ったり使ったり飲んだりすることはなかった。免税と言ってもまだまだ高額だし、その価値もわからなかった。
スイスのジュネーブに行ったとき、ツアー客を連れてとある免税店に寄った。もちろんツアーの旅程に入っている。買い物後、チーフ添乗員がコミッションを受け取った(コミッションは合法なもので、旅行会社に渡される)。スイス人店長は、私が新人添乗員でスイスに来たのは初めてだと聞くと、ねぎらいの意味かビーニー帽(つばのない耳まで覆えるニット帽子)をプレゼントしてくれた。ブランドはクレージュ(Courrèges)。ちょうど冬だったので、旅行中重宝した。そのビーニー帽は何と30年以上たった今でも使っている。日本で買った他のビーニー帽は数年経つとよれよれになり毛玉だらけになる。それほど高価な物ではなかったと思うが、クレージュ製品の品質の良さには驚いている。
添乗員をやめてからは、「ブランド」という名前は私の生活から消えてしまった。身近なブランドは愛用していたが。例えば「グンゼ」とか・・・。
ところが、フリーランス翻訳業を始めて数年目に、とある翻訳を依頼された。それは、「(横文字の)ブランド名」を日本語にする仕事だった。
今みたいに、簡単にちゃちゃっとググることなどできない時代だったので、どうやって調べたのか、思い出せない。いろいろ人に聞いたりもしたのだろう。苦しんだおかげで、ブランド名の読み方に詳しくなった。
その時、読み方に苦しんだブランド名には、次のようなものがあった。
「Loewe」「Aquascutum」「Versace」
Loewe なんて、一体何語かもわからなかったが、何とか調べて判明した。「ロエヴェ」だった(日本の表記としては「ロエベ」)。単語としてはドイツ語なので、w を「ヴ」と読む(ドイツ語の w は英語で言えば v の発音。だから日本人の「わかこ」さんはドイツでは「バカコ」さん、というジョークがある)。
Aquascutum はもともとラテン語で、aqua が「水」、scutum が「楯」。合わせて「防水」を意味するそうだ。このブランドは英国なので、読みは「アクアスキュータム」と英語的に読む。
Versace はイタリアのブランドなので「ヴェルサーチェ」と発音し、日本でのブランド名も同じだが、英語では「ヴァーサーチ」という感じで発音されている。
かつてテレビで見たアメリカ映画で、タイトルも内容も覚えていないが、モデルになりたくて都会に出てきた田舎娘が、ファッション関係の男性らと話していて、「私は Versace が好き」と言う。だがその発音は「ヴァーセイス」だった。当然彼女はバカにされた。
Versace を普通に英単語として読めば、「ヴァーセイス」になるので、ファッション雑誌などで見ていても、実際に発音される音を聞いたことがなければ、そう読んでしまっても不思議ではない。
翻訳したブランド名はもっとあったと思う。そこから学んだのは、「何語の発音か」で名前の読みが変わるということ。ブランド名はヨーロッパの言語が使われることが多い。「20カ国語ペラペラ」でも書いたが、何カ国語もかじっていたおかげで、どうやって読むか、コツを掴むことができた。
一般のアメリカ人にとっても、Versace の例もあるようにヨーロッパ系のブランド名は発音しにくいと思う。なまじ「横文字」なので、英語のつもりで読んでしまう、のは当然である。
例えば、Hermes は日本人は横文字でなくカタカナで読むので「エルメス」と言えるが、もともとギリシャ神話の神「ヘルメス(ヘルメース)」なので、アメリカ人は「ハーミーズ」と読んでしまう。ところがブランドとしてはフランス語なので、h は「無音」になる。アメリカ人も、「読み方」を習わないと、前述の映画みたいに、笑われかねない。
その逆が Nike である。これもギリシャ神話の神「ニケ」だが、アメリカのブランドなので「ナイキ」と発音される。英語以外のヨーロッパ言語では「ニケ」と発音されるので、彼らはブランド名としては「ニケ」ではなく「ナイキ」と言わないとわかってもらえない。
日本はそういう問題がなくて楽ではある。ブランド名はカタカナ表記になっているからだ。
我が家のワンコが大好きな「格好の散歩場所」である軽井沢プリンスショッピングプラザは、ブランド名店街である。200店を超える店があって、それぞれブランド名を掲げている。
(「ツリーモール」のブランド店街。我が家のワンコはどの店にも当然のように入ろうとする。本人はスリングバッグかペットカートに入らなければならないのだが。10連休終了直後の平日、真冬より少ない人出だった。これから新緑、夏休み、紅葉と続く。たぶんこんな日はもうない・・・。)
ブランド店が軒を連ねるモールを歩きながら、クセでつい「ブランド名」を読んでしまう。
「ニューウエスト」に、リズムの良いブランドがある。「サマンサタバサ」だ。これは日本のブランドで、米TVドラマ「奥様は魔女」の「サマンサ」と彼女の娘「タバサ」から取った名前だという。綴りは Samantha Thavasa。「タバサ」はドラマでは Tabatha だが、そっくり同じにすると商標上問題が出てくるから Thavasa に変えたのだろうか。それにしても「サマンサタバサ」はリズムにのって発音したくなる名前である。
「コムサ(comme ça)」も日本発の不思議なブランド名だ。「コムサ・デ・モード」「コムサ・イズム」など、いくつものブランド名がある。comme ça はフランス語で、「like that」というような意味。どうしてそんな単語を選んだのだろう。かなり前から目にしているブランド名なので、気になっていた。プリンスショッピングプラザには、その飲食バージョン「カフェ・コムサ」がある。
ブランド名の命名法は、日本のみならずどの国でも同じようだ。どこかしらかっこ良い響きで、場合によっては何語かわからず、どう読むかも作り手次第である。
職業病なのか、ブランド名を見ると、読んで見たくなり、その語源などを調べたくなる。ところが、そのブランドが何を扱っているのか、となると、もともと興味がないので例えば「着る物だろう」程度で心もとなくなる。
「ブランド読みのブランド知らず」とは私のことである。
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日記
2019年04月25日
今上天皇の御退位を間近に控え、10連休という超大型連休の開始とともに、日本はお祝いムードに突入する。
(天皇皇后両陛下の「思い出のテニスコート」。赤いバスは旧軽を走る観光巡回バス。イヌ同乗可。今年の大型連休、軽井沢も例年以上の混雑が予想されている。)
世界中で、「日本の天皇」「日本の元号」が話題になっているが、珍しいからだろう。
通訳ガイドになるための勉強では、「日本事象」も学んだ。例えば、神社と寺院の違い、日本仏教の特徴、生け花や茶道の基本的事項などなど。ガイド教本にて英語で得た知識は多かった。
日本の天皇は英語では Emperorと呼ばれている。それなのに日本は Empire of Japan (日本帝国)ではない。Kingdom of Japan でもない。制度上、「立憲君主国(constitutional monarchy)」である。
なぜ天皇陛下は King ではないのか、なぜ「天皇」という称号は世界でも日本だけなのか。
とても不思議だった。
こうした「天皇」にまつわる諸事情を外国人に説明しても、わかってもらうのは大変だったし、日本人でさえ、よくわからない人はいた。
そうして、いろいろな歴史の本を読み、整理して考えると「天皇」= Emperor の構図がよくわかるようになった。
日本は東アジアに位置しているため、中国文明を含めた東アジア全体の歴史を通して考える必要がある。
学校の歴史で習ったことだが、紀元前から中国大陸には高度な文明を誇る「王朝」があり、「帝」(皇帝)がいた。その配下にあった周辺諸国には「王」がいて、正式に「王」と宣言するには「皇帝」の承認が必要だった。
それは「倭」と呼ばれていた日本も同じ。かつてはたくさんの「王」がいたが、邪馬台国に統一され、近畿に大和朝廷が成立した(4〜5世紀ごろ)。君主は、大和言葉で「大王(おおきみ)」と呼ばれていたが、中国からすれば「王」にすぎなかった。だが次第に独自の文化を確立していった日本は、中国大陸と海を隔て適度に離れていたこともあって、「中国大陸の王朝から独立しよう」と思い立ち、「天皇」という独自(元は漢語だが)の称号を使い始め、7世紀には形式上「独立」した。
つまり、日本の天皇は、「皇帝」の下にいる「王」ではなく、「皇帝」と対等だが、「皇帝」という称号を使うのははばかられるため、独自に「天皇」という称号を使った、というわけである。
さて、ヨーロッパに目を向けてみると、西洋文化では、近代の民主体制以前の君主としては、英語を例にすれば、king と emperor しかない。
king はもともと「村長」や「親分」が、グループの拡大とともに地域の支配者となったもの(これは万国共通だと思う)。emperor は、ローマ帝国の皇帝 imperator が変形したもので、imperator とは、「軍隊の指揮官」のような意味。言ってみれば日本の「将軍」のような称号だった。
(ローマに立つユリウス・カエサルの像。正式には彼の姪の息子であるオクタビアヌスが初代皇帝だが、実質的にはカエサルが「元祖」ローマ皇帝とみなされている。後年のドイツ皇帝やロシア皇帝の称号は、「カエサル」の変形である「カイザー」「ツァー」をそれぞれ採用していることからも、それがわかる。)(Photo by Leomudde via Wikimedia Commons)
ローマ皇帝は強く、どんな地方の王様もかなわなかった。西ローマ帝国が滅んでも、その象徴的権威は続き、ドイツ人(の祖先)が興した形式的な「神聖ローマ帝国」の興隆もあって、king の上に立つのが emperor ということになった。
東西それぞれの「王」「皇帝」の成り立ちは異なるが、19世紀に日本が世界へデビューしたとき、当時まだ存在していた清朝との関係性や世界情勢も鑑み、日本の天皇は Emperor と呼ぶのが妥当だということになったのだろう。
ただ、king の語源にある kin は「家族、一族」の意味があり、emperor は「命令する人」の意味があることを考えると、歴史的意義や上下関係抜きに言えば、日本の皇室は「血縁」を元にした指導者だったので king のほうが適切ではないか、と私は思っている。
実態は別にして、Emperor と呼ばれる君主は現在では日本の天皇陛下のみではないだろうか。今の世の中、当然ながら他国の王様たちと上下の違いがあるわけではない。ただ、現存する王家としては世界で最も長い歴史(少なくとも1500年)を持つと言われており、その歴史の重みは世界的に見て敬意に値すると思う。
元号の使用は面倒、という考え方もある。確かに西暦だけ使う方が楽だし、元号は英語にするとき、各元号をそれぞれ西暦に直さなければならない(仕事上、私はいつもやっているが)。
だが、元号も文化である。人は効率と食糧と科学的事実だけで生きられるものではない。
神社で参拝したり、正月を祝ったり、お盆で墓参りに行ったり、日本が世襲的元首である天皇を国の象徴としていたり、食事の時「いただきます」「ごちそうさま」を言ったり、北枕を避けたり、古い建物を保存したり、草花を愛でたり、ペットをかわいがったり、これらすべては人が生活する上で自然に生まれた、あるいは必要であると思い作り上げた文化である。これはどの国も同じ。
面倒で意味がない、ということで捨ててしまえば、おそらく人ではなくなると思う。
諸外国には元号がない。それはそういう文化がない、あるいはその伝統を持っていた王朝を自分たちで廃止したからだろう。日本には日本の歴史があり元号を保持している。そのことは、ありのままに受け入れても良いと思う。
2019年5月1日をもって新しい天皇に即位される徳仁親王(浩宮様)。私の通信社勤務時代、報道カメラマンとして浩宮様のお出かけに同行した同僚たちが皆、「とても気さくな方」と話していた。常に国民のことを考え、親しく人々に話しかけられる今上天皇陛下(明仁様)と皇后陛下(美智子様)の血筋を引いていることは確かで、令和の時代になっても、人々の心とともにある天皇陛下となられるにちがいない。
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歴史
2019年04月09日
厳寒の何もかも凍ってしまいそうな朝は、シーンと静まりかえっている。そんな早朝に外へ出ると、ピシッと顔が冷気で痛む。満月で驚くほど明るい真冬の真夜中は、キーンという音がぴったりの森閑さだ。
春の強風は、空がゴオオと鳴り木々がブーウウンと唸りながら揺れるが、意外と地面の上は風がフウーンと穏やか。御影用水温水路沿いを散歩すると、出てきたばかりの小さな虫たちがブンブン飛ぶ。用水はサワサワと流れ、我が家のワンコはチョコチョコ歩き、上空ではトビがピーヒョロヒョロ。私はちょっとランラン気分。
(まだ緑少ない早春の御影用水温水路。)
とまあ、擬音語、擬態語、擬声語、擬情語が満載。自然豊かな軽井沢は特にオノマトペが似合う。実のところ日本は、こういった「オノマトペ」が溢れている国である。
なぜなら、日本語はオノマトペが豊富な言語だからだ。
もちろんどの言語にもオノマトペはある。簡単な例は、「動物の鳴き声」。日本の犬は「ワンワン」と鳴くが、アメリカの犬は「バウワウ(bowwow)」と鳴く。英語を習い始めの時、「犬も英語で鳴くんだ」と思った。「痛い!」は Ouch。くしゃみは「ハクション」ではなく Achoo(本当はアメリカ人のくしゃみを聞いても、ほとんど日本人と変わらないのだが・・。まあ犬の鳴き声も実際は万国共通か)。
ただし、世界中で「静けさの擬音語」つまり「シーン」があるのは日本だけかもしれない。
「シーン」は「しんしん」から作られたものと言われているが(最初に使ったのは手塚治虫だと聞いたことがある)、これは「擬情語」、つまり「感情」や「情景」を表したものとも言える。
日本のマンガを外国語に訳すとき、困るのはオノマトペ(効果音)だという。「シーン」など、一般には Silence (英語やフランス語の場合)と表記されるが、必ずしも訳されるわけではないという(無視される)。
もちろん外国のマンガも効果音は使われているが、主に本当の「音」であって、「どきどき」「わくわく」「いらいら」など、音が出てはいない「状態」「感情」を表す効果音は、そうそう見られない。
私の好きな美空ひばりの歌う名曲「愛燦々と」。「燦々(さんさん)」なのは、「太陽の光だから sun sun なんてね」とつまらない冗談を言ってしまいそうになる。
この「燦」は、見てもわかるとおり「漢語」で、現代中国語でも「サン」と発音する。「燦々」のようなオノマトペ的な副詞として使うかどうかはわからないが、意味は「燦々と輝く」である。「朗々と」「汲々と」など漢語起源のオノマトペも豊富だ。
春の嵐が吹き荒れる軽井沢プリンスショッピングプラザ。駐車場に停めた車のドアを開き、乗り込もうとしていた矢先、突風が吹き通った。妻はドアを必死に押さえて、「ドアがドゥアーッって、危なかった」と一言。擬態語かダジャレか。すでに車内にいた私はツッコミを入れたくなったが、強風でドアが全開していたら、隣の車を傷付けてしまうところだった。後で聞いたら、自分で何を言ったか覚えていないと言う。とっさのオノマトペだったようだ。
(強風が吹き抜ける初春のプリンスショッピングプラザ駐車場。まだまだ寒いのに満車状態。右後方に見えるのは離山、その後ろまだ雪が残っているのが浅間山)
日本語は、「ささっ」「ずずっ」「ひゅうひゅう(と)」「ばちゃばちゃ(と)」など、「オノマトペ」が主に副詞として独立した言葉になっているから、このように自由に使い、自由に作ることができる。そこが日本語のすごいところだ。
とかく「幼児語」「子どもっぽい」と思われ、マンガ以外では敬遠されがちなオノマトペだが、本当は使い方によっては臨場感溢れる表現ができる。好例が、オノマトペの達人とも言われる宮沢賢治。何しろ「宮沢賢治のオノマトペ」というようなタイトルで論文や本も複数出ているのだから。
彼は独自のオノマトペを作ったり、独自の使い方をしたりしている。例えば「銀河鉄道の夜」では、「ぺかぺか消えたりともったり」の「ぺかぺか」、「まっくらな穴がどほんとあいているのです」の「どほん」、「天の川の水が・・・どぉと烈しい音がしました」の「どぉ」とか。
こういうオノマトペの豊富さゆえ日本語は情緒豊かで素晴らしい言語だ、と日本語礼賛する人たちもいる。だが、オノマトペは日本語だけの特徴ではない。お隣の韓国では、日本語以上にオノマトペが豊富だ。用法も意味も音もよく似ている。
実は英語(その大元のインドヨーロッパ語族)も、単語そのものがオノマトペ起源というのがたくさんある。bark(吠える)、blow(吹く)などの動詞、dog や pig などの動物も鳴き声を基にしていると言う。日本語のオノマトペ「どしん」「ばたん」「ごろごろ」などの英訳として使われる、thump, bang, rumble なども擬音語起源だと思われる。
そう考えるとヨーロッパの多くの言葉も、オノマトペに満ちていると言える。
一説によると、どんな言語も多くの単語はオノマトペ起源だという。日本語でも例えば「すする」は「すすっ」という水などをすするときの「擬音語」から作られた動詞、「おどろく」も「おどっ」というような驚いたときの発話や擬態表現から作られた動詞の可能性がある。
ちなみに、現在ペットとして飼われている数としては、イヌを超したと言われているネコ。日本語の「ネコ」は鳴き声から来ているという。最新の研究でわかったのは、ネコが日本列島に来たのは比較的最近のことで弥生時代。
ネコを見たことなかった古代日本人は「何だ、このニャンニャン鳴く動物は。ニャンコか」なんていうところから名付けたのだろうか。同じ命名法をイヌにあてはめると「ワンコ」だそうな。ワンコもれっきとした命名法に則っているということか。
(ご近所さんが保護した捨てネコの姉妹。今は優しい里親のもと、ふたり楽しく暮らしている。)
このところ、我が家の中では今までなかったオノマトペが聞かれることが多くなっている。年のせいか起き上がるとき「よたよた」、移動も「のそのそ」、歩く方向制御能力が劣化し、あちこちに「どん、がっ、ばしっ」とぶつける。立ち上がるときは「よっこらしょ」(これは掛け声か)。
ただ東京では存在しなかった、「薪ストーブ」の「ほこほこ」した柔らかい暖かさには癒される。そしてやっと春が来たという「ぬっくり」とした今日この頃の軽井沢である。
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言語
2019年03月22日
世の中に地名ファンはけっこう多くて、地名の謎を解き明かそう、という素人地名学者もいる。それだけ地名は魅力があるのだろう。
地名ファンはもうご存知だろうけれど、軽井沢はもともと「かるいさわ」と言うのが本来の読み方だったが、それを「かるいざわ」に変えたのは、軽井沢を避暑地として開発した外国人たち。Karuisawa は発音しづらかったらしく、Karuizawa になった、というのが定説。私も「ざわ」の方が発音しやすい、というか「ざわ」の発音しか、移住するまで知らなかった。
(軽井沢発祥の地、「軽井沢ショー記念礼拝堂」と我が家のワンコ)
軽井沢という地名の由来は諸説ある。「凍り冷わ(こおりさわ)」「軽石沢」「涸れ沢」「かるう(背負う)さわ」など様々だ。「坂道を背負って運んであげる」のはなかなか良い「おもてなし」語源だと思うが、背負う方は大変である。
軽井沢の地名は主に東日本で複数個所見られる、というから驚きだった。横浜市西区にある軽井沢を始め、静岡県、千葉県、福島県、新潟県、秋田県にもある。由来は別にして、共通点は「火山堆積物の浸食地形」だという。
私の生まれ故郷、甲府市は、「甲斐の府」だから甲府。「甲斐」は諸説あるが、人や物が行き交うの「交う」が有力な由来となっている。
明治維新後、江戸時代の地名は捨てられることが多く、甲斐も同様で、「山梨」になったのは、甲斐国の真ん中あたりにあったのが「山梨」という地名であったため、それを県の地名にした、と聞いている。だが個人的にこの名称は好きではない(今の山梨市の皆さん、ごめんなさい)。よく言われた「山があってもやまなし県」も嫌だった。今どきこんなだじゃれみたいなことを言う人はいないだろうけれど。
「やまなし」はもちろん「山がない」のではなく、「山+果実の梨」でもなく、「山均す(ならす)」が語源と言う。今の山梨市がある場所は甲府盆地の東部で比較的平地が多かったかららしい。
軽井沢に移住する前に住んでいたのは、東京都の稲城市。私が暮らしていた場所は多摩ニュータウン地区だったので、地名は新たに作られたものだった。
最初に住んだ場所は「長峰」で次が「若葉台」。これらは地形を考えて作られている。多摩ニュータウンは多摩丘陵に作られており、「高台」「峰」「谷」などの地形があちこちにある。
長峰も若葉台も台地にあったので、「長い峰」「若葉の茂る台地」という意味で付けられたのだと思う。どちらの地名も私は好きだった。若葉台で住んでいたマンションからは、何とスカイツリーが見えていた。(若葉台はスカイツリーから西に約30数キロ)。
(若葉台のマンションから見えるスカイツリー。そもそも見えるとは思っておらず、どちらの方向にあるのかも考えたことがなかったが、完成後のある日、突然見えるのに気づいた。)
長峰も若葉台も、かつては「坂浜」と呼ばれていた。由来は「傾斜地」の「坂」と、三沢川という川が流れているので、その「水際」という意味での「浜」が一緒になったものだったらしい(今でも「坂浜」の地名は残っている)。
よく「新しい地名は、かつての地形を表さなくなってしまい、自然災害などの危険性がわからなくなっている」と言われている。例えば「くぼ」などの地名は「窪地」だから、水が溜まったり、周囲の傾斜地が崩れたりする可能性がある。
その点、多摩ニュータウンは新しい開発地なのにけっこう旧地名を使い続けているところが多い。乞田、貝取、永山、別所、などなど。それぞれ歴史があったに違いない(近藤勇や土方歳三が道場に通ったと言われる道も近くにある)。
厳密に言えば多摩ニュータウン地区ではないが、隣接地区として「桜ヶ丘」という地区がある(多摩市。最寄り駅は「聖蹟桜ヶ丘」)。確かに桜の木がたくさん植えられている丘の街区ではある。中心部は高台で、そこからの眺めはメルヘン的というか「ジブリ的」である。そう「耳をすませば」のモデルとなった場所なのだから。
そもそも多摩ニュータウンの開発自体がジブリの「平成狸合戦ぽんぽこ」そのもの。このアニメを見たとき、「ああ、こうして多摩ニュータウンができたんだ」としんみりしたものだ。ちなみに多摩ニュータウンで狸は見たことはなかった。
移住した軽井沢で、時々「かるいさわ」と発音する人と話をすることがあり、「ああ、この人は昔から住んでいる住民なのだな」とわかる。軽井沢は「なまり」がないので、「かるいさわ」と言わない限り、移住者か地元住人か判別がつかないのだ。
一度私も「かるいさわ」と発音してみたいと思うが、それじゃまるで詐称しているみたいで、なかなか言えない。
今でも旧軽井沢に行くと、すぐ観光客になってしまう私は、いつまでたってもお登りさんの「かるいざわ」なのである。
よくよく考えてみると、地名というものは、原初的には「地形」を表したものが多かったろうが、近代や現代では同時に住人たちの「歴史」や「未来」や「希望」も表すようになっている。「京都」は歴史を、「東京」は未来を、「若葉台」は希望を。
私が今住んでいるのは追分(おいわけ)。「追分って名前かっこいいね」と人に言われることがある。実は私も「軽井沢」より「追分」のほうが好きだ。
追分は「街道が別れる所」の地名なので、日本中あちこちにある。何が「追って分かれる」のかと思っていたら、「牛馬を(目的の街道の方へ)追って、分かれていく」ということらしい。何と躍動性のある地名だこと。
「追分」は、馬や牛それに商人や旅人が左右に分かれ、旅路を急ぐ様子が目に浮かぶ「絵になる」地名だったのだ。
(追分宿の「分か去れ」。右が北国街道、左が中山道(現在は国道18号)。このあと、中山道は左に南下し、18号とは分かれる。北国街道は18号に出たり入ったりして、この国道とだいたい同じルートを辿り小諸まで続く。 )
読んでいただきありがとうございます。

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郷土
プロフィール
ブログネームは、ロンド。フリーの翻訳者(日英)。自宅にてiMac を駆って仕事。 2013年に東京の多摩ニュータウンから軽井沢の追分に移住。 同居人は、妻とトイプードルのリュウ。 リュウは、運動不足のロンドを散歩に連れ出すことで、健康管理に貢献。 御影用水温水路の風景に惹かれて、「軽井沢に住むなら追分」となった。
