2018年12月07日

大統領の憂鬱

Make America Great Again! (MAGAと略されている)と叫ぶかの国の大統領は、日本でもあまり評判は良くない。もちろん他の国々でも当然不人気だ。発言や行動があまりに突拍子もなく、極端で、不適切だから、不評は当然かもしれない。

テレビに出てくる評論家やコメンテーターの日本人を始め、日本語が達者なアメリカ人タレントたちも、かの大統領に対しては辛口である。かの国では、ハリウッドスターの多くも、自国の大統領に批判的である。

メキシコ国境に壁を作る、中東系の人々を閉め出す、自由貿易を抑制し保護貿易政策を採る、「フェイクニュース」といってメディアを叩く、ロシア疑惑、ロシア疑惑を捜査するFBI局長を更迭する、などなど、まさか「MAGA」差したわけでもなかろうが、人道的で民主的で理性的で知能の高い「文化人」だったら眉をひそめるような行為の連続である。

私も「一般人」ではあるが、同感であった。

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(トランプ大統領。トランプ家はドイツからの移住民。もとは Trumpf という綴りで、元々の出身地は、ドイツのカールシュタットという町。その基となったトランプ家からアメリカに渡った子孫で名をなしたのが、大統領のトランプ家と国際的食品会社となったハインツ家とのこと。)

国内外で不人気ではトランプ大統領も憂鬱だろう、と思ったが、そんな様子はない。

なぜかといえば、彼は自国で少なくとも5割の国民(有権者)から支持を得ているのだ(だから大統領に選ばれたわけだ)。調べてみると、トランプ支持者は主に白人労働者だという。

大統領を支持している白人労働者にとっては、中南米からの違法・合法含めた移民が増えては困る。中国などから安い輸入品が入ってくると困る。自分たちが作ったものが売れなければ困る。中東系の住民がいなくても困らない。セクハラ、パワハラ、健康志向、人種差別、銃規制なども大切だが、それ以上に自分たちが生きていくことのほうが切実な問題、なのだろう。

大統領候補トランプ氏の主張に賛同したから白人労働者たちが支持したのか、白人労働者たちの気持ちに添おうとしてトランプ氏が方針を打ち出し、大統領に選ばれたのか、私にはわからない。

いずれにしても、白人労働者たちの状況は、大統領に辛口ないわゆる「文化人」(上流階級の人たち、高学歴高収入の人たち、映画俳優などの文芸人、国際的企業で働く優秀な人たち)には実感として理解できないのかもしれない。

白人労働者の立場は、当然日本人にもあまり理解できないだろう。私だって、メキシコ国境から越境してくる人々がアメリカに密入国して大変だ、と頭では理解しているが、その切実さはわからない。

フェイクニュースとしてトランプ大統領に叩かれているマスメディア。白人労働者たちは、マスメディアをどう思っているのか。

一般的に、大統領を支持する白人労働者たちは、「経済的苦境」ゆえに大統領を支持している、と言われていたが、別の説を唱える学者が現れた。白人労働者は、現代アメリカの多国籍文化において自分たちの「(白人としての)地位が脅かされる」ことへの不安からトランプ大統領を支持している、というのだ。そしてマスメディアはこの説を大々的に取り上げたという。

どちらの説が的を射ているのか、私にはまったくわからないが、「経済的苦境が理由ではない」と言われた白人労働者の心境は如何に。

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(アメリカの農民。資料写真)

大統領の言動だけ見ていると、首をかしげたくなるが、うわべだけで判断しては良くないのだろう。うわべだけでしか判断できなかった私の文化度は、しょせん上っ面だけのものだった。

うわべだけの判断は良くない、ということは、ひょっとしてロシア疑惑もフェイクだし、マスメディアは反大統領派で、偏向報道になっているのかもしれない。これまでのアメリカの通商方針は国の基礎を作ってきた労働者たちを冷遇しすぎていたのかもしれない。

あるいは、大統領に対する疑惑はやはりすべて事実なのかもしれない。

私には到底判断できない。となれば、どんなことも鵜呑みにしないことが、一番無難なのではないだろうか。

ということで、もとより喝采も糾弾もしないが、むやみに批判することもやめにしようと思う。彼も市民に選ばれ大統領になったのだから。

ただ、市民の支持を得ている、ということについて注意は必要だろう。太平洋戦争前、苦境にあえぐ日本の農山漁村の救済を標榜したのが軍部で、彼らの支持を得た軍部は大きな力を持ち、結局日本を大変な方向に持って行ってしまった。農民たちは「救済」を求めていたのであって、「戦争」を求めて軍を支持したわけではなかった。

国民の支持は為政者により乱用されることは多い。今でも日本始めどの国でもそういう危険性はあるのだ。

一市民の私は「どんな報道も鵜呑みにしない」だけで、自らの知性で真実を探り当てることができないのは、情けないと思うが、日々生きることで精一杯なのだ、としておきたい。

さて明日も仕事である。「表層崩壊」に関する土砂災害関連報告書の和文英訳が待っている。残念ながら、私の文化度は表層崩壊しているように思えるが・・・。


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posted by ロンド at 17:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 国際

2018年11月24日

オペラは太った淑女が歌うまで終わらない



「オペラは太った淑女が歌うまで終わらない」という英語の表現がある。初めて知ったとき、こんな言い回しは「politically incorrect(不適切、偏見がある)」ではないか、と思ったものだが、何十年も使われ続けていて、どこからも文句がでないところをみると、親しみのある表現なのだろう。


確かに、オペラ歌手は男女とも恰幅の良い人は多い。音声的(肉体的)には、太っている方がどちらかといえば力強く質の良い声が出るのは間違いないようだが、必ずしも太っていなければならない、ということではないらしい。


英語では、The opera is never over till the fat lady sings. しかしもっと頻繁に使われるのは、It ain't over till the fat lady sings. という形で、ain't は非常に口語的な is not (am not, are not)の短縮形。主語の It は、試合やゲームなど、何でも良い。「終わりが近づき、勝敗がつきそうになっている」時に「いやまだまだ、どっちに転ぶかわからないよ。早合点しないように」という意味で使われる。


この表現でいう fat lady というのは、もちろんオペラ歌手のことで、原典を辿ると、ドイツ人オペラ作家リヒャルト・ヴァーグナー(日本では主にワーグナーと呼ばれている)の「ニーベルンゲンの指環」三部作の最後「神々の黄昏」に登場する、英雄ジークグリートの死を悼むヴァルキューレ(北欧神話の最高神オーディンに使える女神)、ブリュンヒルデのことという。


「神々の黄昏」では、ブリュンヒルデが20分も歌いフィナーレを迎える構成になっている。つまり、ブリュンヒルデが歌わないと、このオペラは終わらない、ということ。ヴァーグナーはブリュンヒルデ役に太った歌手を起用していたという。


そこからこの口語表現ができた、ということらしいが、本当はもっと複雑なようで、とても紹介しきれないので、ここでは省かせていただく。

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(この表現は映画でもよく使われている。ディズニー実写映画「美女と野獣」(2017)では、最後の大乱闘で、洋服ダンスに変身させられていた Madame Garderobe「ガルドローブ夫人」が、The fat lady is singing!(吹き替えでは「太めの歌姫が歌うまでオペラは終わらないの」)と叫びながら、その巨体で侵入者に襲いかかる。)(写真:Wikimedia Commons)


さて、太ったオペラ歌手の生声の音量はすごいが、私は実際にオペラ歌手が発声するところをステージの上で聞いたことがある。その人は日本人の男性オペラ歌手で、恰幅はよかったが太ってはいなかった。


場所は、東京初台にある東京オペラシティのコンサートホール(初代音楽監督の作曲家武満徹氏にちなみ「タケミツメモリアル」と呼ばれている)。ピラミッド型の天井が特徴的なホールである。


建築の翻訳が専門だった私は、「音響建築」の仕事に関わる機会があった。コンサートホールとオペラハウスを一体的に開発する東京オペラシティ(TOC)プロジェクトである。コンサートホールは高層棟の中、オペラハウスはそれに隣接する新国立劇場の中にある。私はこの2つのホールの音響設計関連翻訳・通訳業務を行った。建設途中から完成後まで10年以上にわたり携わった(全体竣工は1999年)。


2ホールとも、完成した後、何度もオペラ歌手や演奏者に実演してもらい、音響測定を行った。


その日、私はTOCの音響コンサルタントとして来日していたアメリカ人音響学者ベラネク博士とともに、タケミツメモリアルのステージに立っていた。隣には実演を依頼された男性オペラ歌手がいた。彼はおもむろに「あーおー」と声を出した。


その時のことはよく覚えている。それは「感動」なんていうものではなく「衝撃」であった。


このコンサートホールは座席数が1600以上ある。ステージの上に立つと、その広さがよくわかる。広いホールにその生声は浪々と轟き渡った。


そばにいてあれほど「人の力」に驚いたことはなかった。「オペラ歌手の声量はすごい」ことをオペラ観劇で知ってはいたが、その認識をはるかに超える「人間の声の力」だった。これがオペラ歌手か。


その瞬間、オペラというものの「物理的側面」に心を奪われた。


そもそも西洋において音楽は「数学」の一部だった。古代ギリシャから数論と密接に関連し、その理論の上に作られていた、という。


その理由はよくわかる。声や音の数学的側面はもとより、良いホールを設計するには、「音響測定」が必定。ホール内部の形状、壁の材質、座席の材質、壁の形状・装飾などなど、「見た目の芸術性」以前に「数学的(物理的)条件」を満たさなければ、良い音にはならないのだ。


TOCプロジェクトでは、タケミツメモリアルとオペラハウスに対し、天井材、壁材、椅子材、椅子張り材、床材、あらゆる材料を検討し、あらゆる形状を検討し、形ができあがると何度も音響測定をし、何度もチューニングコンサートを行った。私もベラネク博士の通訳者として、設計者や施工者や指揮者や音楽家など多くの人との意見交換、打合せ、議論に臨席し、間近で歌手や奏者のパフォーマンスも見た。音響設計担当の竹中工務店技術研究所音響チームが書くTOC関連論文の日英翻訳も手伝った。そしてホールの設計は「人の感覚すべてを高める空間」作りだということを知った。

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(マエストロ小澤征爾指揮によるタケミツメモリアルでのチューニングコンサートのリハーサル風景。完成後のホールがどんな音響特性を持つか測定し、設計通りできているか検証するための演奏。座席にシートがかぶせてあるのは、人の着席をシミュレーションしている。人の数で音響も変わる。)(写真提供:日高孝之氏)


この仕事以来オペラが好きになった。オペラの「音楽性」「芸術性」「感性」よりは「物理」や「数学」に惹かれた。人間を通した結果の物理・数学、いや人間力に姿を変えた物理・数学と言えようか。


カリスマ的カストラートオペラ歌手ファリネッリのそばにいて、その歌を聴いたら、どんなだったであろうか。まさかその「物理力」で失神したりはしないだろうか。


この先私は、オペラの「芸術性」をより深く理解できるようになるか、「物理」が前面に立ち続けるのか。それは太った淑女が歌うまでわからない。

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      New_National_Theatre,_Tokyo_2010.jpg

(東京オペラシティの高層棟。この低層階にコンサートホール「タケミツメモリアル」がある。)

 

(高層棟に隣接している「新国立劇場」。この低層棟のなかに「オペラハウス」が入っている。現在は愛称として「オペラパレス」と呼ばれている。)


(東京オペラシティのコンサートホールとオペラハウスは、音響設計における世界的権威であったベラネク博士(1914-2016)の膨大な知識と理論、および世界トップクラスの音響測定技術を持つ竹中工務店技術研究所の共同作業により、世界最高レベルの「良い音が聞こえるホール」となっている。)(写真:Wikimedia Commons)



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posted by ロンド at 16:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 音楽

2018年11月09日

列車の遠鳴りが聞こえるところ


庭にいるとき、列車の走る音がふんわりと聞こえてくることがある。


しなの鉄道は私が住む追分の東から南に向かって走っているのは知っていたが、1キロ近く離れているし、しかも線路は堀割を走っている。だから、その音が我が家まで届くとは思わなかった。

Train in the trench.jpg
(三両編成のしなの鉄道。撮影場所は、御代田と信濃追分の間)

たまたま列車が通っているとき東風か南風が吹いて、たまたま私が庭にいるときに聞こえる音だ。


木霊するようなガターンゴトーンという列車の遠鳴りは、不思議に気持ちが和む。


オーケストラの演奏でも、劇場内の「遠鳴り」は特別な音響効果があるという。間近で楽器が奏でられていると、音量は大きく音のぎらつきが体に響く。だが、遠くまで届く音、遠鳴り、は、様々な音がバランス良く混じり、適度な音量や音質となって、耳当たりよく響く。


遠くまで届かせるには、大きな音を出せば良い、というものではない。だから遠鳴りする音を出すには、かなり高度な演奏技術が求められるという。


列車の遠鳴りも、線路と車輪の金属音など耳にきつい音素が様々な音と組み合わさって、心地よく響く音に変わるのだろう。


列車の遠鳴りで心地よさ以上に感じるのものがある。それは、なつかしさである。


そういえば、生まれ故郷の甲府でも、列車の遠鳴りをずっと聞いて育った。当時住んでいた家から、南の方向に中央本線が通っていた。


実際は線路から我が家まで800メートルくらいしか離れていないが、そのころはもっと遠いと思っていた。


生まれ育った街は、道は広く、建物は高く、線路は遠かった。自分が小さかったから、回りの世界が大きく見えていたのだ。


列車の遠鳴りはそのころのイメージと重なり、郷愁を感じさせるのだろう。


テレビでは「鉄道の利用」を勧める鉄道会社のコマーシャルが流れ、鉄道をテーマとした刑事ドラマや、芸能人が日本各地を旅する番組などもある。特にコマーシャルは、魅力的な観光都市、地方都市、自然の風景が映され、耳に残る音楽が流され、いかにも「鉄道でどこかに行けば、良いことがある」と思わせるよう作られている。


それらは「鉄道の音=ノスタルジー」の連想を一般大衆に刷り込むには大いに効果があったことだろう。列車といえば通勤電車、という都会っ子でさえも、列車の遠鳴りを聞くと郷愁を感じるのではないだろうか。私もそう刷り込まされた一人かもしれない。


ただ私の場合、ノスタルジー以上に感じるのは「異界感」である。列車の遠鳴りを聞くと、とたんにイメージは夕暮れになり、どこか知らない世界への門が開くかのような雰囲気が自分の中に生まれるのだ。


私が幼いとき、遠くに行くには電車しかなかった。もちろん自動車はあったが、当時はまだ自家用車を持っている家庭は少なく、我が家も家族旅行は、いつも電車だった。


しかし 楽しかったはずの家族旅行なのに、なぜかどこに行ったのかほとんど覚えていない。


旅行の記憶は不鮮明だが、「どこか知らない場所」の夢はよく見た。今でも時々見る。自分の知っている、または見たことのある街に似てはいるが、実在してはいない街。しかし非常に鮮明な映像の夢。


ひょっとして、家族旅行で行ったのはどこか別の世界であって、戻ってきたときには記憶が消されてしまう仕組みになっている、異界旅行だったのかもしれない、などと夢想してしまったりする(spirited away = 神隠しに遭う。「千と千尋の神隠し」の英語タイトル)。


たぶん、幼い頃は世界が狭く、その世界の外に行く手段は鉄道だったから、列車の遠鳴りを聞くと、そういう異世界に行く、という感覚が生じるようになったのであろう。


ところが軽井沢に移り住んで、つい最近、列車の遠鳴りは聞かなくても、同じような「異界感」を感じたことがあった。


それは、軽井沢千住博美術館(http://www.senju-museum.jp)に行ったときだった。


幻想的な作品が多い絵画の中で、とりわけ私の足を止めたのが「月映」。中央に多くの線路が通っていて、向かう先はいくつものプラットホームがある駅。左右にはビルが立ち並んでいる。駅も建物も地平線まで続き、空には月が浮かび、月光で風景が夕暮れ時のように見える。


この作品が描く世界は、知っているようで知らない世界。そこは鉄道が象徴的な位置を占めている。


列車の遠鳴りを聞く度に感じていた異界感が、目に見えるものとして現れたのが、千住博の「月映」だった。

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(千住博の「月映」。撮影が許可されている期間に、千住博美術館にて撮影)

千住博画伯といえば、代表的なモチーフである「滝」。その発展形という「地の果て」。見ていて冷たさを感じるという人もいるが、不思議に引き込まれてしまう世界観がある。


それらの淡色系作品に比べると、「月映」は温かみがあると言えるが、「別世界」の感覚は強かった。


リゾートであり観光地であり、文壇や画壇を惹きつけてやまない軽井沢そのものが、異界なのかもしれない。



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2018年10月27日

麦は英語にならない


英語にはならない日本語というものはある。


日本独自の慣用表現、日常表現、ことわざ、流行言葉などではなく、もっと単語の単位での「英語にならない」である。


例えば「布団」に相当する英語はない。似たものはあるので、a kind of bedding unique to Japan (日本独自の寝具の一種)などと説明訳ができるが、幸い今では多くの国で futon と言えば通じる。


「湯」は、英語には存在しない。細かいことを言えば、湯が hot water か warm water か、わからないのだが、とりあえず hot water で済ませられる。


翻訳作業においては、「文化」、「感性」、「事物の認識」などの側面も考えて単語やフレーズの翻訳が必要となる。


「感性」の良い例が「刺身」。ガイド英語を覚えたての頃、「刺身」 を raw fish と覚えた。今でも辞書では fresh raw fish などと出てくるかもしれないが、厳密に言えば間違いだ。「新鮮な生魚」は魚河岸にあるのがそうであり、「刺身を食べる」は日本人だって「生魚を食べる」とは言わないはずだ。


とあるガイド英語教本を読み、目から鱗が落ちた。その本では、「刺身」を fresh fillet と説明してあった。fillet とは、肉や魚の「切り身」であり、「新鮮な(魚の)切り身」が「sashimi」なのだ。まさしくぴったりではないか。


raw fish などと食文化の異なる外国人に「ゲッ」とさせるような原始的な食文化を想像させる説明は、間違いである、と気づいた。それ以来、sashimi は fresh fillet と説明している。もっとも今では海外でも sashimi で通じるようになっているが。


つい最近、「事物の認識」に関する「英語にならない」新たな例に当たった。


それは農作物関連の翻訳で、各農作物の生産高が記されていた。「米」「トウモロコシ」「豆類」「麦類」などとあった。


問題は「麦類」である。


「むぎ」。漢字で書くと麦。私には麦と言えば小麦が頭に浮かぶが、大麦もライ麦も燕麦(えんばく)もハトムギも麦である。


「麦」の訓読みは「むぎ」。語源は諸説あるが、大和言葉であろうと言われている。そうだとしたら、米(こめ)と同じく日本独自の単語を持つほど古くから日本で栽培されていた身近な穀物だったのだろう。


小麦や大麦はビールの原料でもあり、軽井沢に来て感動したのは地ビールのうまさである。アルコールはちょっとしか飲めない体質なので、味は評価できるわけではないが、好みはわかっていて、「モルト」の効いたビールが好きだ。その点では、軽井沢のビールは、これまで飲んだ中で(たいして飲んでないが)一番おいしいビールである。


ヱビスビールなどの系統のビールが好きであれば、軽井沢のビール(および東御で作っている「オラホビール」)はお薦めである(ビールは、「雷電」)。


麦はパンの原料でもある。ライ麦といえば、「ライ麦パン」が専門のパン屋さん「一歩」(追分宿に行ったら、たい焼きを食べよう)。私はとてもおいしいと感じるが、「ライ麦パン」(ドイツパン)は食べられないという人もいる。

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(追分宿にある「一歩」で売っているライ麦パン。全粒粉パンなども作っている。こちらのライ麦は、自家栽培のライ麦とドイツから輸入しているライ麦を使っているとのこと。ライ麦100%のパンは、普通の小麦のパンとはまったく食感が異なる。)

小麦のパンは一般的にふっくらとしたものが多い。ところがライ麦パンは密度が高く重く歯ごたえがあり、酸味がある。その独特の食感や味に慣れると、くせになる。


若いときの私だったら、間違いなくドイツパンはまずいと思っただろう。楽しめる味の範囲が広がるのは、年の功であろうか。


さて「麦類」が「英語にならない」のはなぜか。


日本で麦類と言われる「小麦、大麦、ライ麦、燕麦、ハトムギ」などは、植物学的分類でいえば、どれも「イネ科」には属しているが(「イネ科」は米を始め多くの穀類および草類が属している)、それ以降の分類としてはすべて異なっている。簡単に言えば、穀物としては異なる種類のもの、ということである。


英語ではそれぞれ、wheat, barley, rye, oats, Job’s tears で、単語はすべて異なり、命名法に共通点はない。それになんと英語には「麦」に相当する英語がないのだ。


日本語では、食品の「麦茶」「押し麦」「麦飯」の「麦」が実際は大麦だったり、燕麦だったり、裸麦だったりするように、具体的に何の「麦」かわからない。というより、日本にも「麦(むぎ)」そのものを表す穀物は存在しないと言ってよい。


ちなみにこういった「麦」に関する認識(異なる複数の穀物を形状や利用方法が似ているということで、同じ漢字「麦」を付けた)は、中国大陸由来という。


欧米では、上記麦類は植物学的分類と同じで、「似てはいるが、それぞれ異なる穀物」と認識されている。

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(たわわに実る大麦 barley。古代欧州や中央アジアにおいてはその食べやすさから小麦より重要視されていた。barley の語源は古印欧語にまで遡り、「尖ったもの」の意だったという。ラテン語では farina (穀物の粉、小麦粉)という言葉になっている。beer (ビール)の語源が barley だという説もある。)

頭を抱えてしまった。「麦類」に対応する英単語がない。説明訳もしようがない。結局どうしたかというと、「Wheat, barley, rye, etc.」と訳した。


翻訳と一緒にコメントも提出した。「英語では麦類という単語はないし概念もないので、日本語で麦類に属する『小麦、大麦、ライ麦など』を英語にしておきました」と、翻訳会社に申し送った。


本当はあいまいな「etc.」はあまり使いたくないのだが、実際のところは著者に訊いてみないと、具体的に「麦類」として何が挙げられているのかわからないのだから、あとは翻訳会社にお任せ、ということである。


長い翻訳生活で初めて出くわした、新たな種類の「英語にならない日本語」だった。悩まされたが、おかげで麦の知識が増えて、ビールやライ麦パンをよりおいしく味わえるようになった食欲の秋である。



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posted by ロンド at 19:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化
プロフィール
ブログネームは、ロンド。 2013年に東京の多摩ニュータウンから軽井沢の追分に移住。今年還暦に。 同居人は、妻とトイプードルのリュウ。 ロンドは、フリーの翻訳者(日英)。自宅にてiMac を駆って仕事。 リュウ(13歳)は、運動不足のロンドを散歩に連れ出すことで、健康管理に貢献。 御影用水温水路の風景に惹かれて、「軽井沢に住むなら追分」となった。