2019年02月28日
「2位じゃダメなんでしょうか」という質問を聞いたのは、2009年の事業仕分け。質問したのは蓮舫議員。日本ではこの質問をした蓮舫議員に対し「何て質問をするんだ」と否定的に感じた人が多かったようだ。
質問者の意図や当時の状況は別にして、この質問自体私には「普通」にしか聞こえなかった。
外国だったら、何百億ものお金(国民の血税)がかかるプロジェクトの是非を問う際には、こういう質問は普通に聞かれるものではないだろうか。もっと辛辣な質問だって出てくるはずだ。
例えば、1位を狙うには1000億かかる、と言われたら、お金を出すほうは、「そこまで出せないけど2位でもそれなりの成果になるのではないか」「それだったら800億でどうか」「無理しないで2位でいいじゃないか、800億でできるはず」とか、こうしたいろいろなことを訊くことはまったく問題ないはず。
「私たちの研究のため、お金をください(しかも血税から)」と言っているのだから、「なぜお金が必要なのか、何のために必要なのか」ありったけのデータと理論を持って説明するのが筋というものだろう。
この質問が当時の雰囲気から、どちらかといえば否定的な印象を持たれたのは、おそらく「質問」というのが「物事を明らかにする手段」というより「尋問」に近いものと捉える文化的背景があるのではないか、と思った。
「なぜ」と聞かれると「非難されている」と感じることはないだろうか。
「質問」する技術は、コミュニケーションにおいて非常に重要だと、英語に携わっていると強く実感する。外国人との英会話では why を中心に、what, how, which, when のオンパレードである。それがあるからこそ、会話がおもしろくなる。
たとえば、「私はコーヒーが好きです」というと, Why do you like it? と聞く、だけではない。Why not tea? 「お茶じゃだめですか」とか、 Why do you prefer coffee to tea? 「お茶ではなくコーヒーなのはなぜ」とか、日本語だったら「天の邪鬼」に聞こえるような質問もすることはある。実はこういう質問に答えるのが大好きな外国人は多い。自己主張は自己表現であり、それをしあうことで相互理解が深まる。そこに、「異民族交流」の歴史を持つ諸外国と「阿吽の呼吸」の日本との、コミュニケーション手法の違いが反映されているのかもしれない。
質問内容は質問者の意見や意思を必ずしも表明しているわけではない。むしろ会話をよりおもしろく有意義にするためにするもの。そういうことを、私は英語の会話から、また英語でのディベートから学んだ。
(ディベートはこんな感じで、賛成・反対に分かれて行われる。日本でも「ディベート甲子園」と呼ばれる、中学・高校ディベート選手権が全国規模で行われている。)
私がディベートのことを知ったのは、日本にディベート教育を広げようと尽力している松本道弘氏の著書からだ。また直接、氏の指導のもとでもディベートを学んだ。
ディベートとは、誤解されているようだが、「ああ言えばこう言う」という詭弁を学ぶところではなく、「テーマを徹底して考える」ためのもので、「賛成と反対」の両側から考え、互いに質疑応答し、結論を導き出すもの。
自分の意図や意見とは関係なく、賛成側や反対側になり、考える。それはとても優れた思考法であり検討法だと思う。口下手でぼんやりしている私にとって、物事を多角的に、特に自分の意見とは逆から見ることは、とてもよい訓練になった。
実は、「なぜ2位じゃダメなのか」はディベートにとってはおいしい質問なのだ。「待ってました」とばかり、「1位じゃなきゃだめな理由はこれだ」と嬉々として説明する。そのためにあらゆるデータを集め、根拠を考え、わかりやすく説明できるよう事前に準備し、想定問答をしておく。それがディベートの原則。だから「2位じゃダメか」と訊かれれば、しめしめ、とうれしくなるのだ。
本当に相手を論破したいのであれば、「答えがイエスかノーかになる質問」をする。
アメリカの法廷ドラマでは、Are you ....., are you not? と弁護士がたたみかけてくる。これが恐ろしい。きっとアメリカの弁護士だったら、「2位じゃダメ」のような事業仕分けであれば、あっというまに「要求額1000億」が「800億」に減らされ、承認させられてしまうだろう。
(米テレビドラマ The Practice 「ザ・プラクティス ボストン弁護士ファイル」は本格的法廷ドラマで、私もかつてよく見ていた(放映は 1997〜2004)。非常に英語の勉強になった。)(写真:Wikimedia Commons)
英語では devil's advocate という言葉がある。わざと反対意見を言う役割のことで、キリスト教に由来するのだが、今では play devil's advocate といえば、ディベートにおいて、また普通の会話でも「議論を深める(会話を盛り上げる)ため、わざと反対意見を言う」ことを意味する。
現代のイスラエルでは、「10番目の男」という規則がある。9人が同じ意見だったら、10番目の人は必ず逆の観点から検討しなければならない。前世紀から続くイスラエルの苦難は、「希望的観測」(皆が「そんなことは起きないだろう」と思っていたら、起きてしまった)ゆえ生じたものだ、という反省からできあがった規則だという。
ただ、どこの国の人であっても根掘り葉掘り聞かれたくない人はいるし、「物は言いよう」だから言い方には気をつけなければいけない、と口下手だが口が滑りやすい私は自分に言い聞かせている。
互いに反論したり言い返したりすることが、普通の会話の中で普通の心理状態で行えたら、きっと「胸を割って語り合えた」という充実感が得られるだろうし、論理的思考も鍛えられると思うが、それは日本ではダメですか。
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文化
2019年02月15日
そろそろ啓蟄。軽井沢では、はや真冬は過ぎ、気温は低くとも季節はすでに春に向かってゆっくりと進み続けている。追分の森の小径を散歩していると、零下であっても日が差していると、小鳥のさえずりが聞こえるようになる。さらに寒さが緩んでくると、次は虫である。御影用水温水路沿いを歩くと、蚊のような小さな虫が密集して宙を舞う。犬と散歩しながら、まるでボクシングよろしく相手のパンチをよけるかのように上半身を左右に揺らしながら、用水路沿いを歩くことになる。
軽井沢に来て最初に脅かされたのが、「鎌獰魔」という不気味な虫のこと。家の内外を跳梁跋扈すると聞いた。「鎌獰魔」つまり「カマドウマ」。「鎌を持った獰猛な魔物」というイメージだったので、そういう漢字を想像したが、調べてみると拍子抜けした。「カマドウマ」は「かまど(竃)馬」(かまどにいる馬のような顔をした昆虫)だった。
ネット検索するとその姿を写真で見ることはできるが、私自身実際に動いているカマドウマを見たことはない。軽井沢の別荘では久しぶりに来てみれば、浴室や台所にウヨウヨいる、というのだ。だが、家が新しくなればなるほど気密性も密閉性も高いので、カマドウマが水回りに入り込む隙はないのだろう。我が家の周囲や庭でも見たことはない。
だが、よく記憶の隅を突いてみれば、小さいとき田舎(甲府市)では頻繁に見ていたのを思い出した。小学生ともなると学校の帰りにはあちこち探検した。原っぱの石をどけると、ばっと何かが飛び上がる。バッタやコオロギではない、ジャンプ力がすごく手足が長い気味悪い虫がいた。あれがカマドウマだった。名前さえ知らなかったけれど、当時は身近な虫だったのだ。
田舎でも東京でも見たことはなかったが、軽井沢に来て頻繁に見る虫といえば、カメムシ。これが一番厄介だ。何しろ触るとものすごくくさい臭いを発する。たとえ殺虫剤を使っても、一瞬で仕留めない限り、臭いを出されてしまう。臭いが手につくと、石けんで洗ってもなかなか落ちない。秋になると、目に見える場所にたくさん出てくる。小さくて、亀の甲羅のような多角形をした虫である。
臭いを出さずに退治する方法がいろいろネットに出ている。洗剤を溶かした水の入ったコップの中に、そっと気づかれないように落とすとか、ガムテープにくっつけてすばやく包み、ビニール袋に入れるとか。だが慣れないせいかなかなかうまくいかず、悪臭を放たれてしまうことが多い。
一昨年は10月頃、大量発生した。我が家のサッシ外面に何十匹もへばりつき、隙あらば室内に入り込もうとし、虫の苦手な妻は気も狂わんばかり。寒くなり、暖かさを求め、暖かいところに押し寄せてくるのだ。
ところが去年は、ありがたいことに数えるほどしか見なかった。避暑地軽井沢も暑すぎたせいだろうか。東京などでは蚊も少なかったと聞く。
昨年(2018年)11月に惜しまれて閉店した、「天空カフェ・アウラ」では、閉店間際に訪れたとき、室内外とも満席で、テラス席にはカメムシもたくさんいた。別れを惜しむかのように。触ったら大変なので、よけながら、もう見られなくなる標高1260メートルからの軽井沢パノラマを堪能した。
(「軽井沢の、天空に一番近い場所」だった天空カフェ・アウラ。ここからは、妙義山を始め群馬県の山々も見渡せた。)
秋になると、庭はたくさんのトンボが往来する。ウッドデッキやウッドフェンスの上に止まってくつろいでいるように見える。蝶々も飛ぶ。夏の風物詩ホタルは、軽井沢の発地で生息しているが、最近は減っているので、有志で保護活動をしているという。
「トンボ」や「蝶」や「ホタル」という名前は、音として耳に心地よく、ほのぼのとした雰囲気を感じる。「蝶」は漢語で大和言葉はないようだが、もともと「ディエ」的な音で、それが平安時代は「テフ」となり、さらに変化して「チョウ」になった、という。「チョウ」「チョウチョ」はとても柔らかい響きがある。「トンボ」は「飛ぶ羽」が語源、「ホタル」は「火が垂れる」のような意味だという。原初的で感覚的で心和む。さすが古くから日本にいて日本人に親しまれている虫である。
この3種の虫の英語名は、学校で習うからご存知の方も多いと思うが、興ざめというか気持ちが入ってないというか、英語は虫に冷たい言語なのだな、と思い知らされる。
トンボは dragonfly 、蝶は butterfly、ホタルは firefly である。「龍+ハエ」「バター+ハエ」「火+ハエ」という意味だ。fly は「飛ぶ」で「飛ぶ虫」のような意味もあったのだろうが、それをあろうことか、嫌われ者の昆虫ハエに使っている。
英語以外の言語ではどうなのかわからないが、少なくとも古代英語話者たちの生活様式と係わっているのではないだろうか。狩猟文化が色濃く残り、麦栽培で、畜産も盛んだったヨーロッパ人の先史時代。虫は家畜にまとわりつくお荷物だったのかもしれない。
アジアモンスーン帯は、水が豊富なこともあり、虫がたくさんいて、害虫も多いだろうが、人々に親しまれた虫も多かったのだろう。
(昔懐かしい赤トンボ。子どもの頃は近くに河原も草地もあったので、赤トンボの数ははるかに多かった覚えがある。)(資料写真)
しかし、あのか弱そうな「トンボ」に dragonfly はあんまりだ。英語における昆虫命名者の神経を疑ってしまう。どこに dragon (日本人の考えるアジアの神聖な「龍」ではなく、言ってみれば怪物のドラゴンである)を連想させるものがあるのだろうか。不思議でならない。
蝶の butterfly も「黄色い」から名付けただけなのか。だったら yellowfly でもよさそうなのに、食べ物に対する配慮に欠ける。ホタルの firefly にいたっては、同じ「火」の意味を使っている日本語の「ホタル」と違い、非常に無機的、物質的である。「ヒムシ」という感覚であろうか。あの可愛らしくほのかな光を出す小さな虫に、それはないだろう。
まあこれら英語名に対する私の評価は、言いがかりみたいなものかもしれないけれど。
自然に囲まれた追分の森暮らし。周りにいる虫たちも、人間により様々な名前を与えられ、様々な意義をもたされ、大変なことだろう。見慣れぬ虫がいたら、「虫の名は」と気になってしまうだろうか、あるいは名もなき虫のままだろうか。おおざっぱな私としては後者のような気がする。
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自然の驚異
2019年02月01日
私はヒーロー物が好きだ。CG技術が進歩したこともあり、このところ「スーパーヒーロー」映画がたくさん作られている。私の最近のお気に入りは、「ブラックパンサー」(2018)だ。
(「ブラックパンサー」のポスター。「ブラックパンサー」はマーベルコミックにおける「アベンジャーズ」の一員なので、アイアンマン、キャプテン・アメリカなどと同じ世界に存在していることになっている。)(写真:Wikimedia Commons)
主人公は、アフリカの黒人で、「ワカンダ王国」の王子(で国王になる)。もちろんワカンダ王国は架空の国である。この映画、登場人物は8割が黒人。主人公ブラックパンサー(本名はティ・チャラという)を演じるのは、チャドウィック・ボーズマンという、まあ言ってみれば「ちゃきちゃきのアフリカ系アメリカン」俳優だ。
この映画を見て気づいたのは、「皆、なまりのある英語を話している」こと。そのなまりは、アフリカ系の人が英語を話すときのようなアクセントだ。アフリカを意識した、よく考えた演出だ、と思った。
主人公もその仲間たちもかっこ良かったし、悪役もなかなか手強く、ハラハラドキドキ、ハッピーエンド、ああ、2時間楽しかった、という私の認識は甘かったのがわかったのは、それから数ヶ月してからだった。
まず「ブラックパンサー」がゴールデングローブ賞でドラマ部門作品賞にノミネートされた(受賞は逃した)。さらにアカデミー賞でも、「作品賞」にノミネートされた。いわゆる「SF特撮(今はCG)アクション映画」が作品賞にノミネートされるのは、非常に珍しい。
どうしてそこまで評価されているのか、と思っていたら、ネットで偶然ある記事を読み、「ワカンダ王国ではコサ語が使われている」がキーだと知った。
コサ語。聞いたことはある。調べたら、南アフリカで話されている現地語の一つで、特徴は、「カッ」という舌打ち音。しゃべっている途中で、どうやるのかわからないが「舌を打つような音」を出すのだ。この音は吸着音と呼ばれ、コイサン語族の特徴でもある。「コサ語」と検索欄に打ち込めば YouTube ですぐコサ語を話す人が出てくる。見ていると興味深く、コサ語の吸着音をちょっと練習してみたくなった。
映画をもう一度よく見たら、確かにコサ語を話しているとき、「カッ」という音がしていた。ブラックパンサー役のボーズマンもそうだ。
映画では、登場人物がコサ語を話すシーンはごくわずかだが、それでも「ワカンダ王国」の母語はコサ語で、主人公ブラックパンサーもコサ語が母語、という設定自体が画期的で、それが映像化・音声化されたためさらに衝撃が大きかったということらしい。
これまで黒人のヒーローはたくさんいても、彼らはアフリカの黒人ではなかった。「ブラックパンサー」は、確かにアフリカ人ではある。このマンガが誕生した1966年当時のアメリカでは、それなりに話題にはなったであろう。だが、もともとアメリカンコミックの主人公であり、活躍するのもアメリカ的マンガの世界。またマンガとしてのワカンダ王国ではどんな言葉を話していたのかは、設定されてもいなかった(音のない紙上の物語だから、考えてもいなかっただろうけれど)。
ではなぜ、「コサ語」になったかというと、ブラックパンサー(ティ・チャラ)の父親役ティ・チャカを演じたのが南アフリカ人俳優ジョン・カニで、彼の実際の母語がコサ語だった。ブラックパンサーが最初に登場した別の映画「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」で、ティ・チャカが息子のティ・チャラと久しぶりにあったとき「英語で挨拶するのはおかしい」とジョン・カニが監督に言ったら、「じゃ何て言うんだ」と言われ、コサ語を使ったという。その時「ワカンダ王国ではコサ語が話されている」という設定になったわけだ。
「ワカンダ王国」の衝撃はそれだけではない。
コミックの設定では、「かつてアフリカの大地に宇宙からヴィブラニウムという隕石が落ちてきた。その影響で不思議な効力を持つようになったハーブを摂取したアフリカ人が、超人的な力を持つようになり、『ブラックパンサー』を名乗り、人々を救い、統合し『ワカンダ』という国を建てた。
ヴィブラニウムを白人に取られると悪用される、という恐れからワカンダは『鎖国』(外から見えなくする技術がある)となり、国内で高度な科学技術を発展させた」ということになっている。
つまり、ワカンダ王国は「15世紀ごろから続いていた西洋人によるアフリカの搾取」の対象ではなかったことになる。これが「もしアフリカが白人たちの植民地にならなかったら、どうなっていたか」の一つの解答を示している、のだそうだ。
私は到底そこまで読み取れなかった。アメリカやヨーロッパでは、そのあたりが理解されていて、高い評価を受け、その結果、作品自体の出来の良さも含め、アカデミー賞でも作品賞にノミネートされた(作品賞始め7部門でノミネート)のだと思う。
ただの「楽しかった」映画ではなかったのだ。
男女平等もワカンダでは当然のこと。国王を守る近衛兵たちは女性だし、国王ティ・チャラの妹や元カノも大活躍。見ていて、頼もしい。
「コサ語を話し、世界最高の科学技術を持つ平和で公平なアフリカの国、ワカンダ王国」。私も住んでみたい。
ワカンダ王国の衝撃は日本人の私にはよくわからなかったが、アフリカの人々およびアフリカにルーツを持つ人々にとって、自分たちのアイデンティティを世界的に認識させた一大事だったわけである。
もちろん、こういう映画が作られたからといって、すぐアフリカの国々に良い影響が現れる、というものでもないだろうけれど、意識の上では大きな変化をもたらすことは可能だと思える。
約30万年前に生まれた新人類が最初に話した言葉は、コサ語のような舌打ち音を持っていたかもしれない、と言われている。
「神よ、アフリカに祝福を(Nkosi sikelel' iAfrika)」*
*(19世紀末に作詞作曲された賛美歌で、アフリカの数カ国で国家として使われている、アフリカ人独立の象徴的な歌となっている。)
(アフリカのイメージ写真。アフリカだからといって、どこにでもキリンやライオンやゾウなどの野生生物がいるわけではない、とはよく聞く話である)
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国際
2019年01月18日
1998年の映画「ユー・ガット・メール」は、ネット時代を象徴するラブコメディーだった。男女がインターネット上で知り合いEメールを交わすようになり、恋愛感情を持つに至る。最後は直接会ってめでたし、というお話。
なんと、インターネットの登場により、人は直接顔を合わせず恋愛するようになってしまった。人の出会いさえデジタル化し、人はそれを普通に受け入れるようになってしまった。
(トム・ハンクスとメグ・ライアンのラブコメディー「ユー・ガット・メール」。今と比べるとPCやネット接続方法が「時代遅れ」に見えるが、当時はネット時代ならではのラブストーリーだった。)(写真:Wikimedia Commons)
仮想現実の世界で冒険が繰り広げられるスティーブン・スピルバーグ監督の2018年映画「レディ・プレイヤー1」では、ついに出会いから事件から恋愛から仕事まで仮想現実の世界で行われるようになった(未来のお話なのだが、もうすぐ実現しそう)。もう「生身」の接触などは、刺身のつま程度の意味しか持たなくなってしまったのか。
人はもっと直接的な人間関係に戻るべきだ。直接会ってから、人を好きになるべき。それが本来の人同士の付き合いである。
まあ、そうかもしれない。でも、私みたいにあがり症で、会ってすぐに相手の気を引けるほどの会話力にも長けていない、という人はどうしたらいいのだろうか。
アジアの古代、若い男女は歌を詠み交わして、心を通わせていた。「歌掛け」という風習で、直接顔を合わせなくても、恋愛のチャンスはあったのだ。
この風習は日本にもやってきて「歌垣(うたがき)」と呼ばれるようになった。この場合の「歌」は現代の歌ではなく、いわゆる万葉集の「歌」(和歌)のようなもの。
記録に残る平安時代の歌垣はすでに洗練された貴族間の芸事的なものになっているが、地方では集落の自由恋愛推進行事として行われていた(その系譜を引くのが「成人式」だという説もある)。
その起源は、大陸の照葉樹林文化または焼畑耕作民文化と言われていて、今でも少数民族の間では行われている。中華文明起源ではない。
このイベントでは、若い男女が互いに顔を合わせることはあるかもしれないが、顔で判断するのではなく、歌を詠み、それに歌で返す。歌の内容や技術を通して、互いの人となりを知り、互いに見初め、恋仲になって、結婚する、というものである。
歌垣に大切なのは容姿や会話ではなく、心を伝える「歌」なのだ。
(美しい民族衣装で有名なモン族の少女たち。モン族は今でも歌掛けを行っている。)
参考として今頭に浮かぶのが、洗練された形ではあるが、万葉集の「額田王」と「大海人皇子」との歌の掛け合い(歌垣ではないが)。
「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」(額田王)
「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも」(大海人皇子)
これはとある宴会の席で、かつての夫であった大海人皇子に対し、「昔こんなことあったね」と額田王が歌い、それを大海人皇子が歌で返した、と言われているもの。
歌垣は、このもっと素朴な形の歌が、男女間で交わされたのだと思う。
この照葉樹林の中で育まれた「歌謡」という文化は、もともと大いなる自然である神々への感謝を表す儀式から生まれたものという。生きていられてうれしい、感謝の気持ちが声になり歌になった。自然発生的な心の声だったのだろう。それが発展して、好きな相手に心の声を届ける歌掛けとなった。
「歌垣」は自由恋愛である。歌の内容で、相手を見極める。「ユー・ガット・メール」では「文面」、「レディ・プレイヤー1」では仮想現実(virtual reality - VR)における自分の分身「アヴァター」の言動で、相手を見初める。
結局、人が人を好きになるのに、手段は問わない。出会いは必ずしも直接会って話さなくたっていい。ネットや仮想現実は、その時代時代に合わせた出会いの場を得るための手段にすぎない。
「ユー・ガット・メール」も、そもそも1940年の米映画「桃色の店(The Shop Around the Corner)」のリメイクである。オリジナル版は、もちろんネットではなく手紙でのやりとり(文通)で、男女が恋に落ちるお話であった。文通もネットも、変わらないではないか。
この世知辛い現代では、ネットでの出会いは危険を伴うと警告されている。
例に挙げた映画では、文通やメールやアヴァターでも「心の通い合い」が感じられるような深さが描かれていた(「レディ・・」の謎解きは実際はかなり知識と知性とコミュニケーションが必要だった)。古代の歌垣でも、歌の掛け合いを通し、相手の人柄や人間性がわかるのだ(古代の人たちはもっと素直だっただろうし)。
ハイテクの現代、ネットやVRなど出会いの手段はいろいろあるが、その手段における「交流」は心を通わせるような深みが必要となる。また相手をちゃんと見極める判断力も必要になってくる。
今の若い人は「直接の出会い」が苦手と言われている。最新技術を使った手段による「間接的な出会い」の方が若者たちの交流機会を増やせるのではないか。
ハイテクの力は「間接的出会い」を「心を通わせる出会い」に発展させられる可能性がある。また無限の活動世界がありえるVRの三次元交流のほうが、ハプニングが起こりやすく、人となりは出やすい。VRを単なる仮想ゲームではなく、「仮面(=アヴァター)」ではあっても実際の人と人が交わるゲーム(=競技かるた、謎解き会、討論会、英語の会など何でもできる)に活用する。そうした形であれば、将来ハイテクによる交流の適正化がさらに進むはずだ。
個人的に私も「書く出会い」のほうが気が楽で、自分の気持ちを表しやすい。古代の「歌垣」はどんな感じだったのだろうか。「詠む出会い」も優雅と言うより、案外躍動感に溢れたものだったかもしれない。
(とあるモン族の村。場所はベトナムだが、モン族は中国南部からベトナムにかけて住んでいる少数民族。こんな雰囲気のところで「歌垣」が行われていたわけだ。日本も同じ照葉樹林帯に属するので、風景が似ている。)
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文化
プロフィール
ブログネームは、ロンド。フリーの翻訳者(日英)。自宅にてiMac を駆って仕事。 2013年に東京の多摩ニュータウンから軽井沢の追分に移住。 同居人は、妻とトイプードルのリュウ。 リュウは、運動不足のロンドを散歩に連れ出すことで、健康管理に貢献。 御影用水温水路の風景に惹かれて、「軽井沢に住むなら追分」となった。
